「国」の意味

高橋哲哉「いかなる反動の嵐の時代にも」http://www.kyokiren.net/_action/1112report_takahashi.php


http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061110/1163174018で言及した「名古屋市公聴会における意見陳述」*1との重複もある。南原繁の話とか。
その中から、「国」の意味を巡る一節をメモしておく;


 改正案の「愛国心」教育は、決して危険な国家主義にはならない、と政府与党は言っています。「わが国と郷土を愛する態度を養う」という時の「国」という言葉は「統治機構」を意味しない、「伝統と文化を育んできた」「郷土」を含む「国」、誰もが自然に愛を感じる祖国としての「国」なんだ、というわけです。「国」という言葉が「統治機構」つまり国家権力、分かりやすく言えば政府、という意味ではないから、この「愛国心」教育は危険ではない、という議論がまことしやかに語られています。
 でも皆さん、これは勘違いもはなはだしい、ひっくり返った議論です。憲法や法律に出てくる「国」という言葉はむしろ「統治機構」というきっちり限定された意味でないといけないんです。この法案だって、他のところは皆、「国と地方公共団体は」云々、ちゃんと政府という意味で使っています。しかし、愛国心のところで「政府」という意味にしてしまったら、だれも「政府」を愛する人なんていませんよ。よほどの権力好きの人でもない限り。国民の心や感情を国家に向けて動員するためには、愛国心の「国」は「統治機構」を意味したのではまずいのです。「愛」を動員するためには、「国」は、そのときどきの政府ではなく、伝統や文化や歴史をまるごと含んだ、そして何よりも家族、友人、郷土などをまるごと含んだ、人々の感情に訴える「祖国」としての国、そういうものでないといけない。特攻隊に言った人(sic.)が、東條内閣のために命を捧げようと思ったと思いますか?
 かつてのいわゆる「危険な国家主義」だって、統治機構を愛せなどとは言わなかった。そんなもののために命は捧げられないから、そのときどきの政府を超える「悠久の祖国」を愛せ、そして「天壌無窮の皇運」を支えよ、と言ったわけですね。
 ですから、この条文は、為政者が国民の愛国心を動員するときに考える、まさにその形になっている。「危険な国家主義」の歯止めになると思ったら大間違いです。