加藤陽子*1「両立する定型と自由」『毎日新聞』2021年1月9日
渡部泰明『和歌史』という本の書評。
曰く、
冒頭で「縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕に言語の自由をもたらした」との寺山修司の言葉が引かれる。和歌に必須の様式である「定型」が、意外にも製薬ではなく「自由」と親和性が高いことを、寺山を例として読者の脳裏に鮮やかに刻む。では、定型と自由という組み合わせは、なぜ和歌では無理なく両立するのだろうか。
まず、和歌は集団的な思いが刻印されたものと著者はいう。一定の方向性を持つ集団的な思いは、社会が詠んだ詩ともいえると。著者はこの方向性を「理想」と名付ける。理想が過去に投影されれば懐古になり、未来に投影されれば願望となる。よって和歌には、懐古あるいは願望という形をとった理想が詠み込まれる、とまとめられよう。いっぽうで、その理想を詠むのは現在の自分に他ならない。和歌は自らの置かれた「現実」をも詠み込むことで初めて成立する。理想と現実、この二つが切り結んで一首が生れ落ちるのだ。
理想と現実を31文字の小宇宙に詠み込む芸術が和歌ならば、先に見た、定型と自由の議論との関係はどうなるのだろう。これを解くヒントは、本書で著者が特に注目する「越境型」佳人の存在にある。額田王、和泉式部、西行などの越境型歌人は、夢と現実、生と死といった境界を歌に詠んだ。彼らは二つの世界を越境しただけでなく、「同じ重みで」それを扱って歌とし、歴史にその名を遺した。二つの世界を同じ重さで詠む、ここがポイントだろう。その際、理想と現実のどちらかを定型に流し込み、どちらかを自由に読むことで歌作は容易となり、歌の可能性も広がることになってゆく。
著者の開設の面白さに、つい歌論に紙幅を費やしてしまったが、頭の中は中世歌人の化身である著者とともに、柿本人麻呂、大伴家持、紫式部、藤原俊成・定家、後水尾院まで、千年以上にわたる和歌史を、最新の研究成果をふまえた解説で読んでゆく時間は、まことに贅沢なものだ。(後略)