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流亡記/歩く影たち (集英社文庫)

流亡記/歩く影たち (集英社文庫)

  • 作者:開高 健
  • 発売日: 2020/12/18
  • メディア: 文庫

開高健*1貝塚をつくる」(in 『流亡記/歩く影たち』、pp.259-294)から;


夕方六時にショロンの彼*2の家へいくと、屋上に案内された。そこでヴンタウへでかける前夜と同じようにさっそく饗宴がはじまった。一つの大テーブルの中央に直径が一メートルほどもある真鍮製の巨大な火鍋をすえつけて炭火をたっぷり底へ入れる。もう一つの大テーブルに牛、豚、鹿などの肉の山を並べ、そのよこにカニ、エビ、イカ、石斑魚、春雨、魚の浮袋、豚の網脂、春菊、豆腐、香菜などをこれまたそれぞれ小山のように盛りあげて並べる。たくさんの中皿が並んで香辛料が入れてあるが、それは澄んだニョク・マム、花椒塩、蝦油、芝麻醤、醤油、マスタード、ケチャップ、酢、赤い唐辛子、緑の唐辛子などである。そのまわりに彼の仕事仲間、賭博仲間、釣り仲間などの老朋友や大人などがすわり、悠々と箸を使って、とめどない食事と乾杯にふけりはじめるのである。夜の十二時が戒厳令で、その時刻にうろうろ町を歩いていると自警団の少年にカービン銃で撃たれても抗議はできないということになっているから、それまでには饗宴は終わらねばならないが、もし戒厳令がなかったらこの人たちは一晩でも二晩でもそうやって談笑と飲食をつづけるのかもしれなかった。それでいてどれだけ飲んで食べてもけっして乱れることなく、ネクタイをゆるめるものもなければベルトの穴をずらすものもない。どこまでいっても開始したときとおなじ快活さと謙虚さである。こういうのを以食為天、悠々蒼天、肉山脯林、大漢全莚というのであろうか。あちらこちらの菜館の壁でうろおぼえに読みおぼえた対聯の句が明滅する。蔡は終始、眼光炯々、ときどき箸をうごかし、友人の冗談に軽くうなずいて一言、二言、口をはさみ、『サン・ラージュ』(年齢不詳)とだけレッテルに書いたコニャックの稀品を私についでくれる。口をきいてもきかなくても、飲もうが飲むまいが、まったく気にしないのでのびのびしていられるが、それはことごとく達人ぞろいだからなのだろうか?⋯⋯(pp.274-275)
   
このパラグラフを読むのは空腹時がよいか、それとも満腹時がよいか?