「基軸言語」

http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20090206#1233957230


水村美苗*1の本を巡っての小田亮氏のエントリー。「普遍語」を巡って。或いはたんなるリンガ・フランカ(「基軸言語」)と「聖なる言語」(ベネディクト・アンダーソン)との違い。少し抜き書きしておく。


水村さんが、社会言語学や言語史学の成果や、ベネディクト・アンダーソンの本から得た知見(それは誰にでも簡単に手に入るものです)から自分の「問題」を引き出すのに用いた視点は、「〈叡智を求める人〉が引きつけられる〈普遍語〉の〈図書館〉」という視点でした。その中心となる〈普遍語〉という概念は、社会言語学者なら「媒介言語」と呼ぶものに含まれてしまいますが、水村さんの〈普遍語〉は、ベネディクト・アンダーソンのいう「聖なる言語」と、夫君である岩井克人さんの貨幣論(資本主義論)の「基軸通貨」の議論とを合わせたようなユニークなものとなっています。でも、そのユニークさに問題点もあります。つまり、近代以前の大文明の正典=聖典の言語である「聖なる言語」(漢語やパーリ語サンスクリット語や、ギリシア語・ラテン語アラビア語など)と、現代の英語のように「基軸言語」でしかないものとを同じ〈普遍語〉という概念でまとめてしまうことに、水村さんの議論のユニークさと同時に弱点があるということです。

外部からやってきた「書き言葉」である「聖なる言語」は、少数の〈叡智を求める人〉にとって引きつけられる「正典=聖典」の言語であり、それは、たしかに〈読まれるべき言葉〉でした。そして、少数の〈叡智を求める人〉たる「二重言語者」の「読む」という「翻訳」の実践を通して、多くの周辺の言語も「書き言葉」を獲得しました。言語史学でも指摘されていることですが、「書き言葉」は「話し言葉」を書き写したものとして成立したのではなく、「翻訳」という実践によって成立したのだという水村さんの指摘は正しいでしょう。そして、その「聖なる言葉」の翻訳を通して「口語俗語」が「書き言葉」を獲得し、それが近代以降の〈国語〉(国家語)のもととなっていきます。(後略)

水村さんの「問題意識」というか「危機感」は、現在、英語が再び〈普遍語〉の位置を占めるようになり、続いていた「〈国語〉=〈国民文学〉の世紀」が終わるということでしょう。しかし、現在、英語が〈普遍語〉となりつつあるのは、英語が、〈国語〉の世紀以前の「聖なる言語」のように〈読まれるべき言葉〉という実質があるからではなく、ドルが基軸通貨(通貨の通貨)となったのと同じく、英語それ自体に根拠があるわけではありません。つまり、ドルが基軸通貨であるのはたまたま基軸通貨になったからであるのと同じく、英語がたまたま基軸言語になったから基軸言語であるということです。英語が「言語の言語」としての基軸通貨となり、ウェブ上に「基軸通貨としての英語の〈大図書館〉」が仮にできたとしても、そこにはすでに、〈国語〉の世紀以前のような、「〈叡智を求める人〉が引きつけられる〈普遍語〉の〈図書館〉」という図式はなくなっています。たしかに、英語は基軸言語であり、日本の人類学者たちも英語で論文や本を出版するようになっていますし、その傾向はますます進むでしょう。でも、少数の〈叡智を求める人〉たちは、現地語を含めた多言語的状況のなかで「翻訳」の作業をするという知的実践をやめないでしょうし、夏目漱石レヴィ=ストロースレヴィナスといったような〈叡智を求める人〉たちが、これから英語だけで書くという実践のなかで生まれたり〈叡智を求める人〉となったりできるなんてことは逆にありえないでしょう。