「意味の通じる言葉によって整えられる以前の」

小川洋子*1「なつかしい一冊 トーマス・マン著『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』」『毎日新聞』2020年6月6日


「痴漢」がきっかけでこの本に出合ったのだという。


大学生の頃、「ベニスに死す」*2を観に行った高田馬場の映画館で痴漢に遭い、途中で帰らざるを得なくなった。ひどく気分が悪く、堂々と抗議できなかった自分にも腹が立ち、むしゃくしゃした心を鎮めるために、早稲田通りの古本屋さんで原作の文庫本を買った。今でも手元にあるそれには、裏表紙に鉛筆で¥100と書いてある。

映画では、ビョルン・アンドレセン演じる少年の美しさが印象深いが、改めて小説を読むと、冒頭からラストまでを覆いつくす濃い死の気配に圧倒される。最初の一文に既に、”数カ月にわたってヨーロッパに深刻な危機的様相を与えた一九⋯⋯年春”という、暗示的な記述がある。さらに主人公のアシェンバハが旅に出る決心をしたのは、散歩の途中、墓石工場で出会った見知らぬ男に、にらまれれたのがきっかけだった。まさに死の世界からの使者に導かれた、と言える。

(前略)アシェンバハには、ポーランド人の少年の喋っている言葉が分からない。名前さえはっきりと聴き取れない。少年を追う彼は、意味の通じる言葉によって整えられる以前の、原始の世界を見ている。神々の言葉を通訳する詩人の声に耳を澄ませている、そこがこの世ならぬ場所であると、もちろん、彼は気づいていただろう。
ベニスに死す [DVD]

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  • 発売日: 2007/12/07
  • メディア: DVD