遠い未来からの

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)

猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)


小川洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』は小人のチェス・プレイヤー「リトル・アリョーヒン」の物語なのだが、その世界は小さい生き物と大きい生き物との対立に貫かれているようにも見える。小さいに属するのは主人公の「リトル・アリョーヒン」のほか、「壁と壁の隙間に挟まって出られなくなった少女」の「ミイラ」(p.21)、「ミイラ」の肩に乗っている「鳩」、さらには「老婆令嬢」であり、大きいに属しているのは例えば「リトル・アリョーヒン」にチェスを教えた「マスター」、それから大きくなりすぎてエレヴェーターに乗れなくなってデパートの屋上に生涯閉じ込められた象の「インディラ」だろう*1
さて、小川さんの小説で比較的最近読んだ『ことり』*2もそうなのだが、『猫を抱いて象と泳ぐ』では、主人公の死が描かれている。そのことを通じて或る種の戦慄を感じてしまった。とても怖い体験。ただ、それは小説という文学形式それ自体が潜在的には有している筈の戦慄なのだろう。小説というのは基本的には過去形で書かれる。つまり、未来の時点から回想された確定事実として提示されているということだ。(『ことり』もそうだけど)『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んで思ったのは、その未来というのはどれくらいの未来なのかということだ。叙述から推定して、「リトル・アリョーヒン」が死んだ直後ではない。もっともっと先。さらに無限に伸びた、世界が終焉する直前から回想された過去。そういうことを想像したら、ぞくぞくしてきた。上にも書いたように、どんな小説でも過去形という時制の効果によってこうした戦慄を喚起させられる筈なのだが、戦慄させられる小説は実際には殆どない、勿論。
「からくり人形」を操る小人のチェス・プレイヤーということで、ヴァルター・ベンヤミンの「歴史の概念について」(aka 「歴史哲学テーゼ」)を想起する人は(特に拙blogの読者には)多い筈だ*3
ことり (朝日文庫)

ことり (朝日文庫)

  • 作者:小川洋子
  • 発売日: 2016/01/07
  • メディア: ペーパーバック