「柴錬」を語る姫野カオルコ

姫野カオルコ*1「私の青春の碑」『青春と読書』(集英社)522、pp.2-5、2020


柴田錬三郎賞受賞記念エッセイ」。
殆ど全篇「柴田錬三郎」が語られている。
姫野さんと柴錬との出会いは高校3年生のとき。


小説を読むことは「不健康だ」「頽廃的だ」と言われていた。これは私の家に限らず、昭和五〇年代のころはまだ、小さな町には残っていた傾向である。
善太と三平*2的な童話は健全だが、大人の小説については、肺病者が書き、肺病者が読むものだという風があったのである。
母親が「軍国主義の本ではないからよい」と許可した『君たちはどう生きるか*3。父親が応接間の「飾り」として買った海外と日本の文学全集。ごつい本棚に納まったこれらの本だけが、家で私に許可された本だった。
全集の中に柴田錬三郎が入っていたのはラッキーだった。通っていた県立高校に、田舎町では文学部卒ということで変人視されていた図書館担当の国語の先生がいたのもラッキーだった。先生は柴錬の弐学年後輩で、三田文学の作家の本をよく貸してくれ、現代文学も自分の好みで勝手に図書館に入れてくれたりしていた。
私は本をコソコソ読み、好きになった参人の作家の写真を、国語辞典の表紙裏、通学鞄のネームホルダー、生徒手帳に入れていた。
柴田錬三郎の写真は生徒手帳だった。
今のようにインターネットはないから図書館の先生にもらった古本の袖の写真を丁寧に切り抜いて、生徒手帳のビニールのカバーに入れていた。(p.3)
姫野さんはNHKの(柴田錬三郎原作の)人形劇『真田十勇士*4を視(pp.3-4)、柴錬にファン・レターを書いたりしていた(p.4)。そして、姫野さんが「上京」した年に柴田錬三郎は歿し、彼女は「駅で道で交番で、尋ね尋ね」青山葬儀所の葬式に行った(ibid.)。

翌年から命日になると、高校生のころに手紙を書いていた時にはずっと「たかわ」と読んでいた高輪のご自宅に花を持って行った。
たしか直木賞受賞にさいして撮られたものだったと思うが、柴錬が黒いマントのような服を着て、西洋の修道院のような立派な玄関に立っている写真がある。あの立派な玄関のご自宅に。
命日はたいてい雨で、その坂道にリボンをつけたプードルを散歩させているご婦人がいて、プードルが私のほうに寄ろうとすると、「いけません、エミっ」と早口で言った。
「いけません、エミっ」という早い声は、なぜかいつまでも私の耳に残り、そうして私はのろまに小説を書いていった。(pp.4-5)
君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)