承前*1
塩田彩「「日本へのヘイト」 少女像は当たらず」『毎日新聞』2019年9月23日
「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」問題を巡る明石隆浩氏へのインタヴュー記事。
少し抜書き。
少女像に関しては戦時性暴力被害を訴えるものであり、作品としては民族衣装を着て椅子に座った少女像の隣にもう一つの椅子が置かれているだけの構成で、そこに日本人への脅迫や差別扇動という含意はありません。にもかかわらず、河村たかし・名古屋市長は、最初から少女像を慰安婦問題のプロパガンダとして、政治的文脈の中に作品を引き込んで批判しました。芸術作品はその背景も含めて一つの表現ですが、少なくともこの作品を見た人たちが、「日本人を日本からたたき出さなければ」などと思うことはありません。
[「昭和天皇の肖像が燃やされる」ということで]問題とされた[嶋田美子による]映像は、元々は大浦信行さんの「遠近を超えて」というコラージュ作品の関連作です。「遠近を超えて」は1980年代に当時の富山県立近代美術館で展示されたものの、抗議を受けて県側が図録を焼却処分したという経緯を含んだ作品です。作者が自分の所属する集団へ懐疑的であるという点で「自虐」ではあるかもしれませんが、少なくとも自分とは異なる少数派を攻撃するヘイト表現にはあたりません。
展示を巡る言説の中で私が気になっているのは、もっと広くぼんやりした「国民感情」や「常識」という言葉が作品や企画展を批判する文脈で多用されていることです。
8月2日、河村市長は少女像を「日本人の、国民の心を踏みにじるもの」と批判しました。8月9日に名古屋市が市民に向けて公表した文書でも、少女像や大浦作品に関して「多くの日本国民の国民感情を甚だ害するおそれが強く」とあり、「日本国民・社会公衆の多くに著しい侮辱韓・嫌悪感を与えるもの」と書かれています。「日本人なら怒って当然だよね」というぼんやりとしたナショナリズム的な言説が、支持を広げているいるように見えます。
表現の自由の侵害が最も深刻になるのは、それがマジョリティーの都合で行われた場合です。日本における表現の自由の原点には、戦前、戦時中に国家が自分にとって都合の良い形で表現をコントロールしたという歴史があります。ナショナリズムそのものは「悪」ではない。しかし、ナショナリズムの名の下で表現の自由が規制された時、何が起こるのか、この国は過去に経験したはずです。「国」や「日本人」などの主語で、社会が一枚岩であるかのように語られることによって表現の自由が奪われるのが一番怖いことです。