「公民として病みかつ貧しいのであった」(柳田國男)

承前*1

柳田國男『明治大正史世相篇』*2の最後に書かれた「我々は公民として病みかつ貧しいのであった」(Cited in p.102))という言を巡って、柄谷行人は『遊動論』で以下のように述べている;


(前略)柳田が「我々は公民として貧しい」というとき、それは、西洋には成熟した市民社会があるが、日本にはないというようなことをいっているのではない。彼は「公民」の可能性を、むしろ前近代日本の社会に求めている。ゆえに、民俗学となるのだ。たとえば、親分子分は。オヤ・コという縦型の労働組織にもとづくものだが、それとは別に、ユイという対等な労働組織がある。人々がオヤコ関係への従属を脱するためには、「散漫なる孤独」に向かうのではなく、他者と連合するユイに向かわねばならない。西洋でも、市民社会は中世のギルドから発展したのである。その意味で、柳田が当初から協同組合論として考えてきたことも、「公民の民俗学」にほかならない。さらに、その後、彼が先祖信仰として論じたことも、「公民の民俗学」の一種だといえる。
ついでにいうと、中世日本において、村は家族や氏族の拡大ではなく、移民の集合として形成されたと、柳田はいう(『日本農民史』)。その場合、二つのタイプがあった。一つは、「単一支配的」、すなわち、有力な豪農が百姓下人を引き連れて作るものである。もう一つは、「組合式」、すなわち、対等な個人が共同で開発した村である。そこでは、「何か事ある際には村の寄合というものが、真の執行力であった」。前者はオヤ・コ、後者はユイに対応するものである。柳田が「公民」としての可能性を見出すのが、後者であることはいうまでもない。(pp.103-104)
『日本農民史』は読んでいない。柳田が指摘する中世村落の二類型というのは、戦後の福武直(『日本の農村』)が提示した「西南型」「東北型」という農村社会の二大類型*3を先取りするものでは?
日本の農村 (UP選書 82)

日本の農村 (UP選書 82)