http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-296.html
曰く、
日本の農村を云々する場合、少なくとも本家/分家或いは地主/小作といったほぼ一元的な支配構造に統べられている東北型と草分けの家々の水平的な連合によって編成された西南型の区別はつけていただきたいと思う*1。また、兵農分離を見直すべきだという議論は江戸時代の間ずっと続けられていた筈。また、兵農分離が完全になされておらず、農村部に郷士が多く住んでいる藩もあった。林子平(『海国兵談』)はそのような例 として、薩摩藩、土佐藩、仙台藩を挙げていた。林子平は〈見直し〉論者であった。
フランスの農村にはあって、日本の農村にはないもの。それはシャトーなのでそうです。現在シャトーというと、シャトー・マルゴーとかシャトー・ペトリュスだとか、ワインの名前を思い浮かべてしまいますが(私が知っているのは名前だけです)、シャトーとはもともとは領主の館。フランスの農村――フランスに限らず、日本を文明社会の大方の場所――では、農村の中に領主の館が存在する。このことが何を意味するのか? 答えは簡単で、昔は、フランスでは、領主と農民は同じ場所に住んでいた、ということ。日本に領主の館がないということは、日本では、領主――というより支配階級は武士ですが、武士は農村には居なかった。どこにいたかというと、城下町にいた。江戸時代、武士は須く都市住人だったのです。
領主が農民と同じところで暮らす、暮らさないは、単に領主の居場所の違いというだけには、当然のことながら留まりません。領主――支配者階級と言い換えましょう――が、被支配者の実際にいるかいないか、この違いは、現在の私たちでも容易に想像がつくと思います。例としては学校のクラスなどを思い浮かべてもらえばよいと思いますが、教師が居るのと居ないのとでは、雰囲気はかなり異なる。やはり監督者の目が行き届いている方が雰囲気としては厳しいものがあるでしょう。領主が農民から搾取する年貢を教師が生徒に出す宿題に例えると、フランスでは教師がひとり一人の生徒から直接宿題を受け取るようなもので、日本の場合は学級委員がまとめて教師に報告だけするようなもの。フランスでは領主が農民と一緒にいるので、農地からどの程度の収穫が上がってどの程度の年貢を取ることが出来、農民がどの程度の暮らしをしているかも把握できるが、農村に武士がいなかった日本ではそれが出来なかった。庄屋という、学校のクラスでいうと学級委員が、あくまで自主的な形で武士たちに年貢を引き渡していた。

- 作者: 林子平,村岡典嗣
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1939/03/02
- メディア: 文庫
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
先ず日本国憲法「9条は日本人がcommunity志向だからこそ支持されたのであって、association志向の欧米人には理解しがたいものです」というのもよく分からない。因みに、志村氏はcommunity或いは「コミュニティ」という語は使っていない。英語においてcommunityとassociationは混同されて使われることもあり、また私自身もこの2つの言葉についてはそれなりの考えもあるのだが、ここではこの用語に深入りはしない。志村氏の使っている言葉で、「愚樵」氏の「community志向」に対応すると思われるのは、「言葉を必要としない暗黙の了解」ということなのだろう。「言葉」が「必要」か否か、これは文化的な差異の問題でもなく、先進的か「後進」的かという問題でもない。「言葉を必要としない暗黙の了解」が可能となるのは、その前提として、持続的なつきあいがあり、諸々の共有事項が蓄積されているからなのだ。だから全くつきあいのない赤の他人との間に「言葉を必要としない暗黙の了解」が成立することはできない。というか、赤の他人との間に必要なのは、先ず持続的なつきあいによって共有事項を蓄積していくことなのだ。また、実は、「言葉を必要としない暗黙の了解」というのは「言葉」を必要とする関係の土台をなす。ちょうど基本的な動作が無意識や前意識に沈澱することによって、より高次の行為が可能になるように。二足歩行が自明なものでなければ*3、私たちはダンスをすることはできない*4。問題は、「言葉を必要としない暗黙の了解」という土台の上に、「言葉」を使ってどのような制度が構築されるのかということであり、「言葉を必要としない暗黙の了解」が一見すると不可能であるような他者との間に如何に多くの共有事項を蓄積していけるかということなのだ*5。
ここで述べられているのは、欧米人は、すぐさま秩序を作り上げるということですが、この欧米人の秩序とは、組織だった秩序、英語で表記するならassociation(アソシエーション)。対して日本人が作るのは、community(コミュニティ)だということです。志村さんの記事では、日本人のcommunity志向は“どうしようもない後進性”と評価されていますが、私はこれを後進性とする評価そのものが欧米的だと思います。確かに戦争という時代背景のなかで、日本人が作るcommunityが暴力性を帯びたのは事実でしょうが、その同じ日本人が、一旦平和になれば9条を支持したことも考え合わせなければ成りません。9条は日本人がcommunity志向だからこそ支持されたのであって、association志向の欧米人には理解しがたいものです。欧米人のassociation志向は、彼らの社会がいまだに階級社会の強固な伝統を引きずっていることと強く関連していると考えるのが自然です。そのことは領主が農民と同じ場所にいた、という事実とも深く結びついているでしょう。また日本人がcommunity志向なのも、日本が農村的平等社会の伝統をいまだに引きずっていることと深く関連しているはずです。
さらに、
この一節は、文法的にも混乱しているのだが、そもそも「システム」と「生活世界」を対立させるハーバーマス(及びその追随者)の論法がアレだということはあるのだが*6、(フッサールではなく)ハーバーマスのいう「生活世界」についても、「言葉を必要としない暗黙の了解」とか言えば、甘ったれてるんじゃねぇとハーバーマス先生にびんたを食らうことは必定。「生活世界」はコミュニケーションの世界なので、黙ってわかりゃあ、コミュニケーションは、「生活世界」は要らねぇじゃねぇかと。
最近私は、宮台氏の表現を借用して〈システム〉〈生活世界〉といったことを言いますが、association志向が〈システム〉志向であり、community志向〈生活世界〉志向であることは、特に論証する必要もないでしょう。そして現在、特でヨーロッパで注目されているのが、community志向〈生活世界〉志向の方向性らしいです。アメリカは未だにassociation志向が〈システム〉志向で、日本も知識層は同じ傾向ですが、ヨーロッパが現在でもまだ世界の思想潮流の先進地域であるとするなら、日本が未だ association志向が〈システム〉志向でものごとを捉えようとするのは、半周遅れだということになる。かつてassociation志向が〈システム〉志向だった欧州の基準を、もともとcommunity志向〈生活世界〉志向の日本に適用しようとすることは的外れと同時に、時代遅れでもあるのではないでしょうか。
*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070712/1184245286 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080117/1200597198 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080131/1201756251 東北型農村と西南型農村の区別については、取り敢えず福武直『日本の農村』をマークしておく。
*2:http://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=2332900
*3:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090706/1246850237
*4:勿論、ダンスだからこそ、敢えてそれを意識化するということもあるのかも知れない。気功において、普段私たちが意識せずに行っている呼吸が意識化されるように。
*5:これは〈反日勢力〉がうようよする途轍もないネイションを構築してしまう、淋しき国士様とは正反対の途であるとも言えよう。 See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090722/1248240487 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090729/1248840543 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090809/1249843216
*6:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090521/1242870511 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090720/1248115589