対極じゃない

川島秀宜「【平成の事件】主犯少年、報道された「凶悪性」の裏に「弱さ」 川崎中1殺害事件が問う少年法https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190426-00010001-kanag-soci


前書きに曰く、


少年法が岐路に立つ。適用年齢を現行の20未満から18歳未満に引き下げるか否か、検討が続いている。発端は、2015年2月。川崎市多摩川河川敷で中学1年の男子生徒(13)が17~18歳の少年3人に殺害された事件*1だった。過熱した報道は、少年犯罪の「凶悪化」を印象づけ、厳罰化の世論をあおった。少年の素顔を追うと、反して、攻撃的な犯人像と対局(sic.)にある「弱さ」が浮かんできた。
また、

面前の実像と、伝え聞いていた犯人像に、臨床心理士の須藤明さん(60)は大きな乖離(かいり)を見ていた。2015年8月、横浜拘置支所の面会室。男子生徒を殺害した主犯少年の情状鑑定を弁護人から引き受け、アクリル板越しに向き合った。

 カッターナイフで執拗(しつよう)に切りつけた少年の攻撃性が連日、報道されていた。妻に「大丈夫なの?」と身を案じられた。

 「かたくなだな」。少年の印象はむしろ、「防衛的」だった。生い立ちや内心に質問を向けると、はっきりと返答を拒まれた。4カ月で、計9回12時間に及んだ面会。大人に対する不信感と、極めて狭い人間関係で形づくられた虚勢が浮かんだ。そこにあったのは、「弱さ」だった。

 行きつけの中華料理店の隅でひとり、キュウリのあえ物をつまみながら瓶ビールをあおる。地元の先輩が現れると、ばつが悪そうに肩をすぼめた。小中学校で2学年先輩だった男性2人は、少年の性格は「卑屈」なものだったと口をそろえる。「不良になりきれないから、そのまね事をしていた」

「弱さ」と「凶悪」或いは「攻撃」というのは別に矛盾しているわけでもない。対極にあるわけではなく寧ろ一体のものだといっていいのではないか。弱者とはそういうものだとはっきり言ってしまった方がいい。国際関係のようなマクロな事象にいきなりジャンプしてしまうのもアレなことではあるけど、周知のように(例えば)北朝鮮という国家、或いはドナルド・トランプという大統領が凶暴性と弱者性を一体のものとして体現していて、そのことによって世界の存立が脅かされているというのも同形の機制に拠っているわけだ。重要なのは、長い時間かけて自他によって構築されてきた弱者性=凶悪性を如何にして解体していくかということであろう。上掲の記事の後半部では、少年犯罪の厳罰化の是非が論じられているのだが、それはこの弱者性の解体との関連において思考されるべきだろう。