小池昌代『タタド』

タタド (新潮文庫)

タタド (新潮文庫)

小池昌代『タタド』(新潮文庫)を読了したのは日本から帰ってすぐなので、既に二週間くらい経つ。


タタド
波を待って
45文字


解説(片岡義男

この本をブックオフで買ったのは*1、カヴァーに使われている三岸好太郎の「蝶と貝殻」という絵に惹かれたということもあるのだが、やはり何と言っても『タタド』という奇妙なタイトル、その響きに引っかかったということがある*2
表題作の「タタド」。或る日曜日に、TVプロデューサー「イワモト」の「東京から車で四時間半」の海辺の家で、「イワモト」、その妻「スズコ」、妻の元同僚で失業中の編集者「オカダ」、「イワモト」の制作する番組に出演している女優の「タマヨ」が過ごす。「枝葉の騒ぐ音が、和紙和紙和紙とスズコの耳に聞こえる」(p.43)ような強風が吹いたものの、この4人が行うのは、海岸を散歩したり、庭になっている「夏みかん」を食べたり、順番に風呂に入ったり、ワインを飲んだりといったりということだ。普通小説では事件が起こって登場人物たちがそれに能動的にコミットしたり受動的に巻き込まれたりするとすれば、ここでは小説的な事件は全く起こらないといってよい。登場人物たちに色々と過去の記憶が蘇ったりするけど、それが小説的事件の発生、物語の展開に寄与することはない。しかし翌朝、「シゼル・アンドレセン」という歌手*3の歌を契機として、テクスト*4は動き出す。

(前略)スズコはステレオのところに行ってCDをかけた。


I think it's gonna rain today,


若くない女が、何かをほろぼすような声で歌っている。
――だあれ、これ。初めて聴くわ。ごわごわした声ね。とてもいい。
タマヨが聞く。
スズコが答える。
――ノルウェイの歌手。シゼル・アンドレセンっていうの。あなたの声にちょっと似てるわね。見た感じも。
水気を含んだ重い歌声が、女たちの暗い子宮を満たすようにひろがる。
タマヨがすっと立ち上がり、リビングのまんなかまでいくと、そのまま音楽にあわせて踊りだした。腕をだらりとたらし、脱力している。
オカダが夢遊病者のように立ち上がって、タマヨのそばへ寄っていった。ふたりは海藻のように、寄り添って踊っていたが、やがて、ごく自然なかたちで身体を密着させた。
(ああ気持ちよさそう)。
スズコも立ち上がって二人のそばへゆく。
オカダをはさむ格好で、タマヨとスズコの目があった。ふたりは声をあげず笑った。笑うとき、烈しく泣くように顔がくずれ、スズコはタマヨを、タマヨはスズコを、だきしめたいという感情でいっぱいになる。そしてむかし、だれか男を同じような感情で見つめたことがあると思う。
やがてイワモトも立ち上がって、三人のそばへ寄り添った。
スズコがイワモトの手をとったので、ふたりはほんとうに久しぶりにつながった。スズコはすこし、どきどきした。イワモトはまだ酔っているようだ。
もう、挿入なんて勘弁よ、とスズコは思った。接触だけでいいの。ながく、ながーく、時間をかけて、さわりあうのよ。ゆっくりとね、それだけでいいわ。
思っただけで終わるつもりの言葉が、スズコの声になってイワモトへささやかれた。
イワモトから返事はなく、二人は海藻のようにゆれながら、しばらくそのまま手をつないで踊った。
それからスズコが言う。
――交代しましょう。
あらがえない圧力があって、イワモトは自然、スズコから離れタマヨのほうへ行き、入れ違いにオカダが、スズコのところへ来た。それぞれが身体を密着させると、このかたちが、もっとも自然なくみあわせなのだというように、二組のなかに落ち着いた気分がひろがった。
入れ替わったのちのカップルは、前よりもいっそう互いの身体を相手につよく密着させた。オカダはおおむかし、スズコと奇妙なキスを交わしたことを思い出していた。そしてスズコも、オカダというかたまりのなかへ、かつて出入りしたことがあると思った。
ふたりはそうして、身体を密着させたまま、ゆらり、ゆうらりと、たゆたっていた。
やがてスズコは、タマヨとイワモトが寝室のほうへ移動していくのを見る。
ああ、行くのだな、と思って見ている。
――あとでまた、交代しましょう。
タマヨが誰にということもなく、リビングの空間に向かって言った。おごそかで透明な声だった。
何かが決壊したとスズコは思う。始まった以上、それは止められない。終わりが始まっているのかもしれなかった。
――ええ、そうしましょう。
とスズコは答える。交代してもしなくても、実はどちらでもよかったけれど、そうしましょうと同意した自分の声が、泣き声のように自分の耳に届く。
昨日の嵐で落ちた夏みかんが、ごろごろと庭にころがっている。
スズコはオカダの手をとりソファの上にいざなった。
オカダが眼鏡をはすじたとき、小さく不安そうなふたつの目が現れ、その目に視力が残っているようには、とてもスズコには思えなかった。眼鏡をはずすと、オカダはいかにも心細そうで、まるで盲目のひとのようだった。
オカダがおずおずとスズコに覆いかぶさり、二人は魚のようにぴっちりと密着して横たわった。オカダの削げ落ちた頬に指で触れたとき、スズコはオカダの肉ではなく骨に直接触れたような気がした。オカダの顔を掌全体で包む。あああああ、とオカダが声をあげる。いい気持ちだ。わたしもいい気持ちよ。
オカダの目の裏にはさきほどから何度も、一匹の猫が横切っては消えていった。ついに轢き殺してしまうまで、それは消えないのではないかと思う。オカダは凶暴な者となって、アクセルを踏むかわりに、スズコのスカートをつかみ、強引にそれをひきずりおろす。ファスナーはすでにはずされていて、スカートは簡単に無抵抗にさがり、下着をつけていなかったスズコの下半身が、海藻と貝のようにあらわになった。
スズコはなにか噛み応えのある肉に噛み付きたい。だが、オカダには噛むような肉がもうどこにもない、骨と骨をきしませながら、二脚のアンティークの椅子のように、二人はぎしぎし交接する。
誰か、誰か、引き離してくれはしないか。
そう願いながら、スズコは目を閉じ鹿のような足をあげた。シゼルが歌っている。狂牛のような怒鳴り声で。


I think it's gonna rain today,


寝室から、タマヨのあげる大きく荒々しい声が聞こえてきた。(pp.60-65)

最後の部分をほぼ丸写ししてしまったが、何度読んでもこの展開は圧倒される。
片岡義男*5は「解説」で、「タタド」における「関係性の水平さ」を見出している。曰く、

一編の小説を読んだ人として僕が充分に受けとめた感銘の核心は、四人の登場人物たqちのあいだに均等に存在する、関係性の水平さだった。もっとほかの言いかたはあるのだろうけれど、いまの僕には関係性の水平さ、としか言いようがない。四人のあいだに序列はまったくない。誰かひとりが主たる存在として物語をリードし、ほかの人たちがそれに従う、といった上下ないし主従の関係などありようもなく、それぞれの価値にも差異はない。と言って平等とか対等などでもないし、会社組織についてしばしば言われるような、平らな関係とも違っている。物語の最後に提示されるこの関係性の水平さを作り出すために、それまで費やされる文字数のなかで描かれることすべてが、深いところで緊密に寄与している様子にも、読者のひとりとして驚くほかない。(後略)(pp.182-183)
片岡氏はこの本に収められている他の2本についても「関係性の水平さ」を見出そうとしているのだが(p.183ff.)、「タタド」において「関係性の水平さ」は何よりもナレーションの構造に表れているといえるだろう。つまり4人は順番に語りを引き受けていくのだ。
「波を待って」。何やら絲山秋子の「沖で待つ*6を連想させもするタイトルではあるが、「タタド」とは対照的に、一貫して「亜子」の視点で進行する。大まかな筋を語れば、「亜子」は「夫」と息子の「時雄」と一緒に海水浴に来ている。これは毎夏恒例であるらしい。生理が来た「亜子」は海に入らず、「時雄」と浜辺にいる。中年を過ぎてからサーファーになった「夫」は沖に出て波を待つうちに流され、救助される。文字の多くは浜で「夫」を待つ「亜子」の思いつきや回想で占められている。
沖で待つ (文春文庫)

沖で待つ (文春文庫)

「波を待って」の中で重要な場面のひとつは、風でスカートがまくれあがったことを契機に、「亜子」が「女」であることを意識してしまう場面だろう;

長椅子からたちあがり男のほうへ歩みよるとき、さあっと風がふき円形スカートがまくれあがった。はっと思い、スカートを押さえる。生理がきていたので、最初から、今日は浜で荷物番と、決めて来ていた。
スカートをはかなくなって何年もたっている。けれど今日は、たとえ泳がなくとも、海の水にはつかりたい。つかるためにはスカートだった。だが、似合わない。似合わなくなった。どういうわけか。子供が生まれ、重い子をおぶったり抱いたりしているいうち、下半身には、あきらかに筋力がつき、亜子はここ数年、身体全体が丸みを帯びて、安定感のある壺のようになった。ズボンあるいはパンツと呼ばれるそれは、動きやすく、女にとっての戦闘服である。常に股を覆うパンツの類が、いつしか亜子にとって皮膚のように親しみのあるものになり、スカートをはくと、それだけでもう、精神が不安定な女のようになった。
あの、揺れている裾から、なにか、悪いものが入ってくる。いったいそれは、誰によってどこから植えつけられたイメージだろう。だが亜子は、その悪いものを、拒否したいと思いつつ、本当は受け入れてみたくもあった。それを忘れて、忘れたふりをして、日常では、股を覆うパンツをはき続けた。
いま、亜子の下半身を久しぶりに打った風は、亜子のなかに眠っていた分裂した欲望を、一瞬よびさまし、亜子はめくれあがったのがスカートではなく、自分自身であるかのように感じた。(pp.73-74)
また喚起される「夫」に対する嫉妬が入り混じった欲望(の記憶);

夫はもう、五十半ばだが、普段から、腹筋などのトレーニングで鍛えているせいで身体には少しの贅肉もない。若いころから筋張った体で、むかしは牛蒡のようだった。いま久しぶりに眺めると、精悍な感じで圧倒される。ましてや、塗ってくれないか、と言われて背中に日焼け止めを塗ったとき、その肉の成熟した厚みにびっくりした。夫の背中に触るのは久しぶりだった。
押せばまだ、はねかえされる、夫の背中のまぶしい弾力。いのちというものは、弾力のあるものだ。押せば、はずみ、こちらを押し返す。そのとき、亜子は、蛤の力を思い出していた。つい最近、潮汁をつくったことがあったのだ。火にかけた鍋のなかで、蛤たちが、次々と口を開くのを亜子は待っていた。いよいよというとき、おたまで鍋のなかをかきまわそうとすると、ちょうど、ひとつがぱくりと口をあけ、亜子がぼんやりと握っていたおたまを、ぐいと上に押しやった。そこ、どいてくれよ、というように。亜子は驚き、その柔らかく決然とした拒絶の力に、自分の命が押し返されたように思った。それは驚くほど官能的な触感だった。
夫の背中には、あの貝と同じ弾力があった。
もっとも、貝が何かを押しのけて開くとき、それは貝の、死ぬときである。だがその死は、亜子の目にほとんど生の絶頂に見える。死んだ貝は、沸騰する湯のなかでさえ、決して口を開くことはない。一方、生きている貝の生は、貝が開く直前、波のように盛り上がり、沸騰点に到達する。そしてついに、開かれた死のなかへ、烈しくおだやかになだれこんでいくのだ。夫の背に見えたものも、死を内包した、生の絶頂の輝きなのかもしれない。正面にまわれば、おそらく彼に忍び寄る、老いのきざしが見えるはずだ。白髪は増え、皺もたっぷり刻まれている。ところがあの背中はどうだろう。哀しいようなあの艶を、おそらく本人はまるで知らない。(pp.83-84)
そして、「波」に対する嫉妬(?);

――浜に背を向けて、沖のほうをにらんでいると、遠くのほうから、波がたちあがり、うねりながらやってくるのが見えるんだ。それは波というよりも、なにか黒いイキモノだ。そういうときはぞくぞくするぞ。小さい波、大きい波、いくつかの波をやりすごして、今度の波はいいと思ったら、浜のほうに身体の向きを変えて、うまくその波に乗ることを考える。この波だ、というのが来るまでは、沖でずっと波を待つんだ。空はまっさおで、頭上に白い太陽がある。そこから光りが雨のように降ってくる。そういう時間はなかなかいいぞ。おれは、まだ、なかなかうまくボードには乗れない。二十回に一回がせいぜいのところだな。しかもおれはまだ、海の規則がよくわかっていない。若いサーファーに、腕をつかまれ叱られることがある。どうやら人の波を横取りしたらしいんだな。一つの波に、一人の人間。それが、波乗りのきまりなんだ。そりゃそうだよ。波の峰を、横に横にとすべっていくんだから、一つの波に、一人の人間しか、そもそも乗れない。乗った先に別の人間がいたら、危ないだろ。それに波には優先権があるんだぜ。ボードのうえで、最初に身体をおこした者が最初。狭い日本の海に、限ったことかもしれないけどね。とにかく、そんなことがわかるまで、若いやつに、悔しいがずいぶんどなられた。まあ、これからぼちぼち覚えていけばいい。……バランスをとりながらボードのうえにたちあがったときは、そりゃあ、おまえ、快感だぞ。おーっという咆哮が思わずでる。歓喜のおたけびっていうやつだ。
――危なくないの? 波にうまく乗れなけりゃあ、おぼれることもあるんでしょ?
――乗れなかったときは、波に巻き込まれるだけさ。身体は完璧に一回転するね。鼻のなかに海水がだぼーっと入ってくる。波というのは、もりあがり、その先っぽを海のなかに巻き込みながら、くずれるんだよ。
――だいじょうぶなの。
――だいじょうぶじゃないよ。死ぬかと思うさ。でも、それがいい。海面に顔を出して、また波を待つ。沖の向こうに波が見えるだろ、ああ、波が来るって思う。そのときが怖いんだ。ものすごく怖い。ときにはおれの身長の三倍くらいの波がくるんだからな。ゴオーッと音がしてさ。
――底には足がつかないのでしょ。
――あたりまえだろ、足なんかつくかよ。足の裏には常に深い海がある。そのことは、いつも、イメージから離れない。泳げるおれだって、実は怖くなる。土踏まずに意識がひっぱられると、そのまま、海の底に引きずりこまれる感じがするんだ。怖くなると、海を草原だと思う、ウナバラって言うだろ。イメージはそれだ。そこはもりあがる、海の草原。波に乗るんじゃない、波になればいい。おれが波。陸にあがってもしばらく波だ。だから身体が、しばらく揺れてる。
――まったく、あきれる。海のとりこね、波にすっかり、飲み込まれてる。
――ああ、波には勝てない。これに似たものを、ほかに知らない。
――波はあなたにとって、男なの、女なの。
――女のようかな。いや、男のようでもある。たくましくやさしい。女子プロレスみたいな存在かな。
亜子は笑った。
――女子プロって格闘技の? 変な波ねえ。
――ああ、波には慰められもするが、挑むような気分にもなる。おまえだったら?
――そうねえ、あたしだったら……(pp.98-101)
ところで、「波を待って」と「タタド」の共通のトポスを求めるとしたら、冒頭の部分ということになるだろう――

午後になると、海の色が変わった。
底が見えるほど透明なブルーだった水が、いまは濃く深い紺青色を広げている、もっと沖にはさらに濃い紺色の一帯があり、二色はけっして混ざることがない。
海からの風も強くなった。パラソルについたキャンバス地のふち飾りが、忙しくぱたぱたとはためいている。重しのないビーチマットがあちこちでまきあがり、あらゆるものが砂にまみれた。もってきたおにぎり、食べかけのグレープフルーツ、むきだしになった鶏のからあげ、耳の奥、鼻の穴、爪のあいだなど、隙間という隙間にも砂が入り込んだ。バッグはきっちりと閉めたつもりでも、その底には、悪意のように砂が残っているのだった。
海辺に来ると、浸食される。自分をどんなに守ったところで、風、砂、水、光は、容赦がない。まみれて海と一体になるしかないのだが、この一体になるという経験が、亜子の暮らす東京ではめったになく、東京で、亜子は自分自身も、細分化されたパーツのひとつとして、誰とも混ざり合わず、汚れることなく、みぎれいな単体として浮遊していた。
ここ数年、夏ごとに、家族三人でやってくる浜辺は、亜子にとって、自分があばかれる、法廷もしくは刑場にも似た空間だった。なにがあばかれるのか。自分でもわからない。確かに身体は限りなく裸に近くなる。けれどもそれは身体にとどまることなく、なぜか心まで及ぶのである。あばくのは人手はなく、太陽光や海水で、そして「自然」に犯されていくとき、無力感の底から、ぎらぎらした力がわいてきた。(pp.69-70)
「45文字」は他の二篇と比べて、わかりやすいというか、(変な言い方だが)より散文的な小説といえるかも知れない。「緒方」の視点で進行する。失業中の「緒方」は或る日、「坂道の途中」で、中学のときの同級生「横山」と再会する。「横山」はやはり同級生の「サクラダ」と結婚していて、夫婦で編集プロダクションを営んでいる。「緒方」は、「横山」に家に泊まり込んで仕事を手伝うよう誘われ、某「美術全集」の図版にキャプションをつけはじめる。キャプションはきっちり45字に収めなければならない。タイトルの「45文字」はそれに由来する。名画にキャプションをつけているうちに、日常の風景にもキャプションをつける癖がついてしまったというのが一応の落ちか。また「緒方」と「サクラダ」を結びつけるもののひとつは「お尻をあたためる」という奇妙な言い間違え言葉である(「補欠」や「控え」の選手について、bench warmerとかベンチを温めるという言葉はあるけれど)。あと「タタド」や「波を待って」とは対照的に、「45文字」を特徴づけるものがあるとすれば、〈エロス〉的なものの抑圧だろう。「緒方」と「サクラダ」との間には何も起こらないし、「横山」/「サクラダ」夫妻も、(「緒方」の視点からは)

(前略)夫婦のあいだに挟まって生活していることにも、むずがゆい感じが日増しに募っていったが、彼らはあまり、夫婦らしくなかった。睦みあうようなところがまったくなくて、クラスメイトの並列関係が、いまだにバランスよく続いている。性的な匂いがまったくしないのが、逆に不自然で奇妙に見えた。二人をまとめて形容する、どんな言葉も思いつかなかった。つまり二人はばらばらだった。だが、この大仕事を片付けるために、同志のように、日々、机にかじりついていた。そしてそれが、二人とも、そんなに苦ではないようだった。(pp.164-165)
ということになる。さらに、「横山」の住居兼仕事場の「黴」もマークしておくべきか;

部屋の黴の匂いは、ときどき強く匂った。繁殖している。黴が、繁殖している。このままでは緒方自身にも黴が生えてきそうだった。そういう夢を何度か見た。朝起きたとき、黒黴が口の回りにびっしり生えていて、しゃべることも叫ぶこともできないのだ。あーっという自分の叫び声で目が覚めた。サクラダと横山は、リビングにふとんを敷いて寝ていた。きっと二人に聞こえたと思う。(pp.156-157)