労働者階級と「真っ赤なチャーシュー」(メモ)

林望佐藤優*1「日本からは見えないイギリス」『波』(新潮社)508、2012、pp.10-13


英国階級談義をしている部分から;


林 イギリス人を中流上層以上と中流下層以下に分けるとして、その線は何かというと、異文化に対して興味があるかないかです。たとえば日本にやってくるイギリス人が箸でお鮨を上手に食べるのを見て、「イギリス人は東洋的なものを解する」なんて思ったら大間違い。それができるのはインテリだからなんだ。労働者階級は食に対して非常に保守的で、グレン少年にもそういうところがありましたね。
佐藤 中華料理の真っ赤なチャーシューを食べることができませんでした。
林 あれを読んだ時に、ああ、この少年はやっぱり労働者階級に近いんだな、この価値観を打ち破っていくのは容易ではないなと感じて、彼の行く末が見えるような気がしました。(pp.12-13)
そういえば、

ある人がMixiの日記でdeepとshallowということを書いている。deepといってもDeep Purpleともdeep throatとも関係がなく、例えば海外旅行に出かけた時に、shallowな人はファスト・フードで済ましたりするが、deepな人は現地人の生活に深く入り込み、現地人が食している物を経験しようとするといったような話。これは例えばアカデミックな態度でいえば、エスノグラフィにおけるthin descriptionとthick descriptionの差異に対応するかも知れないけれど、ちょっと別のことを考えてみた。
もしかしたら、ある文化、自分がネイティヴであるような文化にどっぷりとdeepに浸かっている人からすれば、海外旅行に行ったくらいで現地人の生活に入り込んでしまうというのは甚だshallowな態度に見えるかも知れない。とすれば、上の話におけるdeepとshallowは逆転してしまうかも知れない。実際、どこの国でも(価値判断は抜きにして)〈田舎者〉ほど食べ物その他の文化的ヴォキャブラリーは狭いといえるだろう。都市においてこそ、相対的に広くて浅い文化的ヴォキャブラリーを得る可能性が高まる。そういうのは、狭くて深い文化的ヴォキャブラリーを生きている〈田舎者〉から見れば、たんなる軽佻浮薄に見えるということになるだろうか。また、都市において「広くて浅い文化的ヴォキャブラリーを得る可能性が高まる」、さらにはそれをよりdeepにすることも可能だといっても、そのためにはそれ相当の経済的資源はもとより人生のかなり早い時期に贈与される文化資本も必要である。そうでない場合、都市にいながら、かなり狭い文化的ヴォキャブラリーを生きざるをえないということになる。こういう人は〈都会の田舎者〉ということになるのだろうが、この狭い文化的ヴォキャブラリーに食物で対応するのは、種々のファスト・フードだったり、或いはジャンク・フードと蔑まれているものだったりする。このような人の場合、海外旅行に行って現地の食べ物には見向きもせずにファスト・フードで済ませるというのは、shallowどころか、実は実は、それで相当にdeepな振る舞いなのではないかと思った次第である。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061101/1162360927
と書いたことがあったのだ。
林望さんについて拙blogで言及したのはこれが初めてか。