隙間の「群衆」

革命的群衆 (岩波文庫)

革命的群衆 (岩波文庫)

ジョルジュ・ルフェーヴル『革命的群衆』*1から。


純粋状態においては、群衆は、諸個人の、自覚されていない一時的な「集合体」agregatである。電車が通ったあとの駅の周辺とか、学校や事務所や工場が終わってどっと人間を吐き出し、彼らが買物や散歩をする人々に合流した時の街路や広場などにできるのが、それである。都市空間の形状が、人間の流れ工合を規定する。混雑の度合も、時刻や天候によるとともに、この都市空間の形状によってもきまってくる。
「社会的」な観点から言えば、このような群衆は、社会集団の一時的な解体によって特徴づけられている。アルヴァックス*2が見事に指摘したところだが*3、いま出てきたばかりの仕事場とこれから帰っていく家庭との狭間にあって、路上の群衆の中にいる労働者は、彼の行動を社会化しているもろもろの制度から、しばらくの間、自由になっているのだ。
群衆の中に埋没する時、ある者はそこに歓びを感じ、ある者は不安を抱くのも、おそらくはそれゆえであろう。前者は解放感を覚えるのであり、後者は放り出されてしまったと感じて狼狽しているのである。(pp.19-20)
「革命」の「群衆」を巡る諸言説では、一方では(例えばル・ボンが語ったような)「純粋状態」の「群衆」、歴史家たちが語る「さまざまな個人が、共通の情念ないし同一の理性的判断に基づいて、自発的に集まった」「結集体」(rassemblement)(p.13)という二極化が現れている。しかし、ルフェーヴルからすれば、この2つの間の「中間的な性格の多くの結合状態」、つまり「半意識的集合体」(agregat semi-volontaire)が重要だということになる(p.21)。
最近、

(前略)「都市民」にとって、電車こそが「他界」的な空間かも知れないと不図思った。住居でも職場でもない、住居がある郊外でもオフィスがある都心でもない、それらの間にある空間。(伝統的な意味での)怪談はわからないけれど、電車の中で、日常的には善良な親、夫、労働者、教師、左翼、愛国者etc.である筈の人が、魔が差して、痴漢とか盗撮といった犯罪行為に奔ってしまうことも少なくない。勿論、魔が差したのではなく、悪徳ペンタゴンやら国家権力やらに呪われたと主張する人もいるようだけど、構造論的に言えば、それらが電車という空間の境界性(リミナリティ)に関係しているということは疑えないだろう。
と書いたのだけど*4、これも社会学的には、「社会集団の一時的な解体」或いは「社会集団」からの「一時的な」離脱ということで説明可能なのだろう。
また、1970年代末に流行った「口裂け女」を巡って、2012年に、

(前略)黄昏が危険なのは昼でもあり夜でもある(或いは昼でもなく夜でもない)ということによる。さらに「子供」にとっての夕方の意味を考えなければならない。夕方は下校時間に対応するわけで、「子供」にとっては学校制度から離れ、塾や家庭という別の制度に移動するちょうど中間、制度的な空白の時間であるわけだ。
と書いていた*5
なお、このジョルジュ・ルフェーヴルの講演が行われてから数十年後に、サルトルが「集列性」という概念を提出した。上のルフェーヴルの用語でいえば「結集体」に至らないネガティヴな状態として*6サルトルがこの講演を知っていたのかどうかは知らぬ。ところが、政治哲学者の故アイリス・マリオン・ヤング(Iris Marion Young)はサルトルの論を換骨奪胎して、「集列性」に、本質主義に陥らないアイデンティティの可能性を見出していたのだった(See Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy, Princeton University Press, 1997, Chapter 1 ”Gender as Seriality: Thinking about Women as a Social Collective”)*7
Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy

Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy