先ずは「集列性」へ

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最近「民族主義」が盛り上がっている。
これに関しては、ジェンダーを「集列性(seriality)」へ一旦還元してみた*1Iris Marion Young*2("Gender as Seriality: Thinking about Women as a Social Collective”, Chapter 1 of Intercepting Voices)に倣って、ひとまず「民族」を「集列性」へ還元してみたらいかがだろうか。これは記号論的に言えば、「民族」に限らずアイデンティフィケーションの対象となる〈共同体的なるもの〉というシニフィアンが固定された単一的なシニフィエを有しているのではなく、無数の(相互に矛盾しているかもしれない)シニフィエを孕んでいる(孕みうる)ということを承認することだろう。

Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy

Intersecting Voices: Dilemmas of Gender, Political Philosophy, and Policy

これを踏まえて少しメモしておく。「種的同一性」の問題;

犬が同時に猫であることができないように、人が同時に複数の国民・民族・人種であることができないような自己規定を、酒井直樹は「種的同一性」と呼んでいる。それは(中略)近代以前の自己規定が無数の社会関係の網の目のなかでその都度特定の他者との関係によって定まっていたのとは異なり、抽象的な集合への帰属によって定まるものである。種的同一性が社会統合の優先原理になるのが、近代の特徴である。
(中略)
ある個人がその人以外ではありようがないという考え方を個人主義と呼ぶのなら、酒井直樹が述べるように、個人を分割不可能な実体と見る個人主義は、国家を同質の国民から構成される分割不可能な個体とみる見方(国民全体主義)と同じものだといえる。個人がその人自身であると同時に他人にはなれないと想定されるのと同じく、ある国家は同時に他の国家では決してありえないとみなされているからであり、個人も国家も、それぞれ他人や他の国家との固定化された排他的関係の中で、その種的同一性を獲得するという原理を共有しているからである。そして両者は論理的に互いに相手を必要としている。個人の社会的アイデンティティの根幹として、ある特定の国家の一員であるという属性が生きていく上で不可欠であることは、例えば教育とか選挙権といった身近な例を考えればたやすく理解できるだろう。それと同時に、近代国家も個人主義的個人をその不可欠な構成員としている。Aが同時にBでもあるのなら、「国民」という概念は直ちに崩壊してしまい、国家は国家の構成員を管理掌握することなどできないからである。(出口顕『臓器は「商品」か』、pp.144-146)
臓器は「商品」か―移植される心 (講談社現代新書)

臓器は「商品」か―移植される心 (講談社現代新書)

「民族」(或いは〈共同体的なるもの〉)とアイデンティティを考えるとき、「種的同一性」を自明視することからは解放されなければならない。これは、私がコミットメントする、或いは巻き込まれる〈共同体的なるもの〉の複数性ということと関係がある*3