人が複数居合わせても集団になるとは限らない

http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20070423#p2http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20070424#p1http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070422/p1にて知る。
『朝日』の記事なり;


36歳男が特急車内で女性乱暴容疑 乗客、制止せず

2007年04月22日17時46分

 JR特急電車内で女性に乱暴したとして、大阪府警淀川署は21日、滋賀県湖南市石部南、解体工植園貴光被告(36)=強姦(ごうかん)罪などで公判中=を強姦容疑で再逮捕した。

 調べでは、植園被告は昨年8月3日午後9時20分ごろ、福井駅を出発した直後の特急「サンダーバード」の車内で、20代の女性の隣に座り、「殺すぞ」「一生つきまとってやる」などと脅して体に触り、その後トイレに連れ込んで乱暴した疑い。

 同署によると、当時、同じ車両には約40人の乗客がいたという。一部の人は異状に気づいたが、植園被告から「何を見ているんだ」などとすごまれ、制止や通報ができなかったという。

 植園被告は昨年12月21日夜、JR湖西線の電車内や同線雄琴駅(大津市)のトイレで、暴力団員を名乗って「逃げたら殺すぞ」などと女性を脅して乱暴したとして、強姦罪などで起訴された。今月6日、大津地裁で初公判があり、起訴事実を認めている。

 JR西日本によると、同社のすべての車両には扉付近に異状発生を運転手や車掌に伝える通報ボタンがついている。昨年12月の事件後、同社はボタンの位置を知らせるため、「SOS」とある大型ステッカーを張った。広報部は「不審なことがあれば周囲の人に呼びかけるか、ボタンで連絡をしてほしい」と話している。
http://www.asahi.com/national/update/0422/OSK200704220006.html

列車の名前が「サンダーバード」なのに国際救助隊は来てくれなかったのかというのはともかくとする。
ネットでは「乗客、制止せず」ということの方に論議が集中しているようだ。しかし、何よりも先ず「被害者」の方に思いを致すべきであろう。別のソースによれば、最終的にレイプされたのが京都を過ぎてからだということなので、かなりの長い時間に亙って途轍もない〈恐怖〉に打ちひしがれていたことになる。また、誰も助けてくれないという絶望感。或いは見捨てられてしまったという感覚*1。それは想像に絶する*2
さて、残りの乗客たちである。http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20070423#p2では、「2ちゃんとかの反応を見ていたら、「んな止められるわけないだろ」という意見も多くて、へぇと」と言われている。その一方で、この人たちを「卑劣」だと糾弾する言説もある*3。ここでは、それに乗って、「乗客」たちを弁護したり糾弾したりはしない。それは「乗客」たちが何を考えていたのか、今の時点でどう思っているのかということを知らないからである。「乗客」たちは、開き直りにせよ反省にせよ懺悔にせよ、とにかく言葉を発するべきだと思う。そうでなければ、一方的に「卑劣」認定されてしまうよ。勿論、被害者の女性がその時の乗客たちに向かって、何であのとき助けてくれなかったの!?と叫び・問い詰める権利はあり、「乗客」たちはそれに何らかの応答をする責任はあるのだろうとは思う。また、ここでは、例えば、

これは卑劣なのではなく、単にその場にいる人が、それぞれの日常の慣性の強度に押し流されているだけなのだからだと思う。だとしたらそれは卑劣、というよりもそのような慣性に抗うことのできぬ理性(reasoning)を問うべきなのである。上記の強姦事件の現場に居合わせた人々を、そのことに対して行動をしなかったという点で非難すべきではない。異常を日常に回収する、あるいは異常であることを感じなくなっているという点にこそ焦点があてられるべきなのである。
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20070424#p1
という自らに還り・問う省察も差し控えることにする。
犯人がどんな奴だかはわからないが、相撲取りやプロレスラーでもない限り、4人か5人で1人を攻撃すれば、ぼこぼこにすることはできるだろう*4。但し、そのためには〈集団〉が形成されていなければならない。思うに、その場に居合わせた「乗客」たちはサルトルいうところの集列(series)だったのであり、集団を形成することができなかったということなのではないだろうか。そうであれば、いくら大勢いたって、結局は1対1であり、その上「植園被告から「何を見ているんだ」などとすごまれ」てしまっては、恐怖で身体が硬直して、勝つことはできない。如何にして集団は形成され、如何にして集団は形成されないのか。倫理学の問題というよりは、相互行為の社会学の問題として考えてみたら如何かと思うのだ。大まかに言えば、先ず〈揺らぎ〉が生み出される必要があるが、最初の〈揺らぎ〉の生成を巡っては、問題は勇気とか信頼といったことに回付されることになるのかなとも思う。
ところで、http://d.hatena.ne.jp/kaerudayo/20070423#p2で、「植園容疑者は容疑を認めているが、その後の調べで、乗車券や特急券を買わずに乗っていたことがわかった。また、植園容疑者は車掌に切符の確認を受けた際、被害女性の隣に座っていたが、車掌から注意を受けなかったという」(NTV)という引用がある。落ちは、乗客の睡眠妨害も辞さない筈の検札が何をやってるんだということか。

*1:これは孤独(loneliness)という実存的境位のコアにある。

*2:被害者に寄り添いつつ書かれたテクストとしては、http://d.hatena.ne.jp/megmama/20070424#p3がある。

*3:例えば、http://www.j-cast.com/2007/04/23007096.html

*4:これは相手が飛道具を持っていないという前提である。