承前*1
柴田寿子「古典をめぐる思想史学の冒険」(『未来』499、2008)からの抜書き。
また、「スピノザの思想は、ヨーロッパ思想とユダヤ思想の系列のなかにありながら、どちらの本流にも属していないがゆえに、逆にそれらとは異なる文明圏と共鳴する要素をもっているのだろう」(p.13)とも。
スピノザは、今日言うところのリベラリズムやリパブリカニズムに好意的なのだが、西欧の典型的な近代民主主義論やリベラリズムの思想潮流とは根本的前提を共有していない。そのことにいち早く気づいたのは、スピノザを「野生の異例性」と呼んだA・ネグリであろう(ただ異例さが「マルチチュード」の概念に収斂するかどうかは、思想史学としては疑問であるが)。
たとえばスピノザは、自然は個人を作るが民族や階級を作らない、というよく引かれる有名なフレーズを残している。西欧のキリスト教文化圏における個人とは、伝統的に「人格(persona)」の意味を帯び、とくに宗教改革以降は自分の良心に従い自由意志によって信仰を選び取る主体、デカルト以降は近代的理性的主体としての意味が前提される。しかしスピノザにとって「個individuum」は、無限に多様で重層的な運動をおこなう「自然」のなかに、一定のリズムをもって自己保存的な運動をおこなう主体が偶然出来上がったときに生じるものであり、人間にとってはまず自己の進退が基本になる。それゆえ人間は、主体的な自己保存の可能性はもちろんのこと、自己の認識も「自然」に規定され、自由意志という独立した機能をもっていない。また伝統的に規範的意味をもっていた「自然法」も、スピノザにとっては「自然」の法則にすぎず、実定法もその範囲内でしか機能しえない。
しかし西欧の政治哲学にとってみれば、政治的自由の根拠である自由意志を否定し、その体現である法を必然的な自然法則に埋め込んでいる思想など、「政治」以前であり、のちにヘーゲルがスピノザを「東洋的」とやや侮蔑的に形容した理由も頷ける。のちに社会学を基礎付けたデュルケームは、プラトン以来ホッブスを経由してモンテスキューにいたる政治理論家たちは、人間の共同社会が人間の自由意志によって技巧的に作られ倫理的に演繹可能だとみなしたがゆえに、社会の必然の法則よりも最善の社会形態についてのみ論じてきたと、スピノザが『国家論』の冒頭に掲げた嘆きを繰り返すことになる(後略)(p.12)
そういえば、スピノザの『神学・政治論』、購入して10年以上埃を被った儘だ。
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