日々社会契約

承前*1

國分功一郎『はじめてのスピノザ』から。
スピノザの「社会契約説」は『神学・政治論』*2で論じられている(p.90)。


ただスピノザの社会契約説は、いわゆる契約説とは少し異なっています。
一般の契約説では、安全のために人々が集まって社会契約を行い、その後それに従って国家の中で生きていくという論法になっています。つまり人々は、いつかどこかで、一度、契約をしたことになっているわけです。ここに契約説が虚構と呼ばれるゆえんもあります。誰もそのような契約をした覚えはないからです。
スピノザは確かに契約説の立場を取っていますが、一度きりの契約という考え方をしません。毎日、他人に害を及ぼすことがないよう、他人の権利を尊重しながら生活していること、それこそが契約だというのです。
いつかどこかで一度契約した内容に従うのではなく、一つの国家の中で互いに尊重し合って生活していく。それによって契約はいわば、毎時、毎日、更新され、確認されている。
私はいわゆる契約説が一回性の契約説であるとしたら、スピノザのそれは反復的契約説であろうと論じたことがあります(國分功一郎『近代政治哲学』ちくま新書)。
確かに集団の中で生きていくことで、自分の権利が制約を受けるという面はあるでしょう。すぴのざもそれを認めます。
ただ、だからといって集団で生きることを完全に否定はできない。人間は一人では生きられないし、集団で存在して互いに組み合うことで高められる力があるからです。
ただし、 もしその集団や集団の指導者たちが、これまで確認してきた契約内容に背くようなことを行い、人々の権利が蹂躙されるようなことがあれば、人々は日々の暮らしの中でその契約を確認することをやめるでしょう。つまり、集団は崩壊するでしょう。
社会契約が一度限りのものではなく、生活の中で反復的に確認され続けるものだとするスピノザ的契約説は、我々に、常に緊張感をもって契約と向き合う必要があることを教えます。
一人ひとりの権利が蹂躙され、コナトゥスが踏みにじられる、そのような国家は長続きしないというのがスピノザの考えでした。一人ひとりがうまく自らのコナトゥスに従って生きていければこそ、集団は長続きする。なぜならその時に人は自由であるからというわけです。(pp.90-92)
「コナトゥス」とは何か;

コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。医学や生理学で言う恒常性(ホメオスタシス)の原理に近いと言うことができます。
たとえば私という個体の中の水分が減ると、私の中に水分への欲求が生まれ、それが意識の上では「水が欲しい」という形になります。私たちの中ではいつも、自分の恒常性を維持しようつする傾向をもった力が働いています。(p.57)
「おのおのの者が自己の有に固執しようと努めるコナトゥスはその物の現実的本質にほかならない」(『エチカ』第3部定理7*3)。
エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

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  • 作者:スピノザ
  • 発売日: 1951/09/05
  • メディア: 文庫

*1:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2021/04/17/130606

*2:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20080616/1213550226

*3:畠中尚志訳を一部改竄。畠中訳では、conatusは「努力」と訳されている。