「せむしのこびと」(メモ)

これも「主体性」問題*1だ!

田島正樹*2ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』」http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/52102828.html


ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」第1節の「チェス・ロボットを陰で動かしている小人の話」。その「小人」は「神学」であるという。実は田島氏の文を読みながらそうだったっけという疑問が擡げてきた。岩波文庫版から第1節を書き写しておく;


よく知られている話しだが、チェスの名手であるロボットが製作されたことがあるという。そのロボットは、相手がどんな手を打ってきても、確実に勝てる手をもって応ずるのだった。それはトルコふうの衣装を着、水ぎせるを口にくわえた人形で、大きなテーブルのうえに置かれた盤を前にして、すわっていた。このテーブルはどこから見ても透明に見えたが、そう見えるのは、じつは鏡面反射のシステムによって生みだされるイリュージョンであって、そのテーブルのなかには、ひとりのせむしのこびとが隠れていたのである。そのこびとがチェスの名手であって、紐で人形の手をあやつっていた。この装置に対応するものを、哲学において、ひとは想像してみることができる。「歴史的唯物論」と呼ばれている人形は、いつでも勝つことになっているのだ。それは、誰とでもたちどころに張り合うことができる――もし、こんにちでは周知のとおり小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならない神学を、それが使いこなしているときには。(p.327)
「神学」は「小さくてみにくい、そのうえ人目をはばからねばならない」と形容されているので、やはり「神学」=「せむしのこびと」ということになる。また、「神学」=「せむしのこびと」と「歴史的唯物論」=「人形」とは両義的な関係を結んでいることがわかる。つまり、「こびと」が「紐で人形の手をあやつってい」る一方で、「歴史的唯物論」=「人形」は「神学」=「せむしのこびと」を「使いこなしている」。
ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

田島氏は以下のように、「神学」=「せむしのこびと」を解釈する;

ここで「神学」と言われているものは、かつて主体性論争で「主体性」として問題化されたもの(いささか旧い思い出!) に対応する、と理解するのがわかりやすい。マルクス主義の包括的説明記述(これがチェスの指し手)だけでは、マルクス主義は機能しない。あたりまえだ!実際に運動を担い、革命に決起する者がいなければならない。そして彼らは、単にマルクスの解き明かした知識をもっているだけでは十分ではなく、むしろ何らかの確信をもたねばならない。それは、包括的説明(知)が正しい、といったことには解消されはしない。たとえそれが正しいにしても、自分が何をするかは、そこから自動的に出てくるものではない。だからこそ、例えばドストエフスキーは、「真理よりもイエスの方が大事だ、イエスが真理でないとしたら自分は真理よりイエスを選ぶ」と言ったのである。自分の実存にとっては無関係な一般的真理より、自分の救済のために犠牲になったイエスの存在の方が重要だということである。理論は説明を与えるかもしれないが、決断を与えてはくれない。
 「党本部」で理論から決断を演繹し、それが下々の者に指令として発せられるのだと、党員は信じているかもしれないが、党本部で為されているのは、しばしば場当たり的な博打か、自分たちが犯してしまった愚行の言い訳のために重ねられる、さらなる愚行の決定にすぎない。それを神聖な啓示と信じている者たちの信仰によって、運動自体が支えられている。いずれにしても避けられない信仰的要素を明るみに出さねばならない。
 すると、信を未来に置くか、過去に置くかの違いが見えてくる。一見すると、革命的左翼は未来への信に基づく様に見える。しかしそうではない。未来への夢想は、進歩への愚劣な信頼でしかなく、「精神の惰性」によるのだ。我々の救いは未来にはなく、過去にある。この点を理解するのが非常に重要である。それを理解しない者は所詮「精神の惰性」にとらわれているのであり、進歩への幻想によって、現代の支配的勢力に媚を追っているにすぎない。「地道な過去の積み重ね」が明日の日につながるというのは、欺瞞にすぎない。そんな道はどこにもないのだ。我々はどの道も地獄への道にすぎず、八方ふさがりであること、未来という神々への拝跪は偶像崇拝に他ならないことを、肺腑にしみとおるまでに明確に認識せねばならない。なぜなら、未来は現在の延長としてしか思い描くことができず、未来に期待をつなぐ者はそれ自身によって、現在に、つまりその支配勢力に加担してしまっているからである。彼らはそれを後生大事に守ろうとして、結局、足場から世界が崩壊しつつあることに気づかない。
 だからこそ、過去に目を向けるのだ。その時、過去は血ぬられた闘争の歴史として浮かび上がってくる。眼前に広がるのは、カルタゴの廃墟、ジェリコの崩された城壁、燃え上がるワルシャワのゲットー…そして今も燃え続けるアレクサンドリアの図書館である。
 さればこそ、これらすべての廃墟の瓦礫の中に、繰り返し繰り返し立ち昇ってくる虹のような救済の希望が輝きわたるのである。
これは、過去を未だ解決が与えられていない課題として、問題として引き受けることである。歴史を決まりきったものとして受け取ること、すなわちそれを「文化遺産」として丸ごと価値あるものと見なすことは、そこに塗り込められた闘争と暴力を忘却するものであり、厚かましく支配者面をした不正義の簒奪者に加担することである。左翼は、勝利者の「正史」を問い直し、歴史の中に未決の問題を蒸し返さねばならない。そのことによって、問題を忘却から救済し、それを過去からの委託として、自ら担うのである。
また、

ベンヤミンの「神学」が、主体性論者の「主体性」より優れた所は、前者が過去を担う責任として捉えられている点である。それは決して抽象的な「自由意志」のようなものではない。主体性Subjectivityは、その語源的意味で、すなわち臣下として臣従することとして、つまり負い目として理解されねばならない。過去そのものが我々に課す責任であり、我々が真に我々自身であろうとする限り、打ち捨てることが許されない委託なのである。なぜなら我々自身を生み出した歴史そのものが、未解決のものとしての問題を、我々自身に刻みつけられた傷痕として、我々に課しているからである。我々が実存する限りその課題を問い続けねばならない。我々が過去を問題として引き受けるのは、我々自身を誠実に引き受けることなのである。
田島氏のいう「信仰的要素」については、例えばベンヤミンの「暴力批判論」を論じているデリダの『法の力』*3などを参照しなければならず、ここでの解釈は保留しておく。「信を未来に置くか、過去に置くか」。これについては、パウル・クレーの「新しい天使」が言及されている「歴史の概念について」第11節の

[「楽園から吹いてくる]]強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方でかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、〈この〉強風なのだ。(pp.335-336)
という部分を読めば、「歴史の天使」*4が顔を向けているのは「過去」だということは明らかである。さて、「廃墟」である。田島氏によれば、「廃墟」とは「過去」の「血ぬられた闘争の歴史」の痕跡ということになる。勿論、「歴史の概念について」からそのような解釈を引き出すことは不当ではない。ただ、私としては、第3節の

さまざまな事件を、大事件と小事件との区別なく、ものがたる年代記作者が、期せずして考慮にいれている真理がある。かつて起こったことには何ひとつ、歴史から見て無意味なものと見なされてはいけない、という真理だ。(p.329)
という言葉を重視してみたい。つまり、ベンヤミンのいう「廃墟」とは「進歩」という目的意識的なプロジェクト或いは過程の中でレリヴァンスなしとして打ち棄てられてしまったゴミ(waste)なのではないか。ここで、ベンヤミンの「歴史の概念について」の最初の読者のひとりでもあるハンナ・アレント*5ヘーゲル批判(The Life of Mind [Two Willing], I”The Philosophers and the Will”, 6“Hegel's solution: the philosophy of History”, p.39ff.)を参照してみる。但し、今アレントの原文を直接引用する余裕がないので、矢野久美子『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』からの引用にとどめる。曰く、

アーレントは、『精神の生活』第二部「意志」において精神現象における「行為」の源泉としての「意志」を論ずるなかで、「意志」と「進歩」への共感をもって思想史をえがいた哲学者としてヘーゲルをあげている。そこでアーレントは、アレクサンドル・コイレ*6に依拠しながら、過去についての哲学すなわちヘーゲルの歴史哲学が、「進歩」への信頼にもとづきつつ「過去以上に未来を優先した」ことを批判した。そうした構想においては、過去は、想起する自我のまなざしによって内面化され、精神と世界の宥和が起こってしまう。アーレントによれば、ヘーゲルの「世界史」は「意志の王国」である「精神の王国」の展開であり、それが「わがものにできない」すべてのものは、歴史の過程や論証的思考の歩みにとって無意味で偶然的なものとして、歴史の向こう側におかれるのである。おこでのアーレントヘーゲル解釈はかなり極端である。しかし、こういったヘーゲル批判があるからこそ、アーレントベンヤミンが「記憶」とみなす残骸が、自我による内面的構成物ではなく、意志の展開である「世界史」によって無意味で偶然なものとして葬り去られた《モノたち》であることが、いっそう確かになる。(後略)(第4章「「木の葉」の《身ぶり》」、pp.124-125)
暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

The Life of the Mind (Combined 2 Volumes in 1)

The Life of the Mind (Combined 2 Volumes in 1)

ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所

ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所

田島氏はリルケの『ドゥイノの悲歌』を引いている。しかし、私たちとしては、或る米国人作家も召喚する必要があるだろう。その名はトマス・ピンチョン*7。『競売ナンバー49の叫び(The Crying of Lot 49)』。勿論、鍵言葉はWASTEである!
ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

競売ナンバー49の叫び (サンリオ文庫)

競売ナンバー49の叫び (サンリオ文庫)

The Crying of Lot 49 (Picador Books)

The Crying of Lot 49 (Picador Books)

ここで述べてきたことからすれば、仮令「決して抽象的な「自由意志」のようなものではない」とはいっても、そのまま「主体性」を肯定することはできないだろう。歴史を鑑みても、例えば連合赤軍の惨劇*8のように、寧ろ「主体性」の強制の方がより血を要求してきたともいえる。「主体性」は、目的意識的な(従って、不可避的に「廃墟」を生産し続ける)「意志」の「主体」である限りは相対化され続けなければならない。再び矢野久美子さんの本(第4章「「木の葉」の《身ぶり》」)から引用しておく*9

アーレントによれば、意志と自己の関連はつぎのようになる。つまり、意志は、何を意志するにせよ自己に束縛されたままであり、自己からは解放されえない。意志は、「自己をめがけ、自己を鼓舞し、駆り立てながら、自己によって滅ぼされる」*10。個人としてであれ、組織された集団としてであれ、自己に拘束される意志に根拠をおくならば、単一のコンテクストに閉じこめられてしまう。そればかりか、自己中心性の契機は、他者の自己、異なるあり方であろうとする自分の自己にたいしても暴政をふるうようになる。全体主義的要素は、哲学的伝統のなかにすでに存在していた。「独我論的自由の観念ほど恐ろしいものはない」*11。「木の葉」が「自由」であろうとするならば*12、この意志こそが放棄されねばならなかった。(p.119)

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110210/1297348107 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110212/1297527735

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060830/1156904686 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060905/1157462920 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061010/1160499009 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061021/1161451763 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070807/1186490802 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070829/1188385230 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080227/1204077862 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080502/1209698659 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100206/1265435465 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101021/1287629417 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101221/1292961164

*3:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060206/1139243584 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071024/1193204480 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071121/1195614055 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080502/1209661435 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080904/1220503480 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081222/1229915830 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090219/1235062130 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090322/1237733396 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090804/1249374491

*4:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080612/1213282824 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090221/1235199344

*5:ベンヤミン遺稿とアレントとの関係については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061107/1162865739http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091110/1257827687も参照のこと。

*6:Etude d'Histore de la Pensee Philosophique, 1961. See p.223, note 83

*7:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060826/1156613177 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070307/1173259708 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080528/1211987493 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080822/1219369178 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080915/1221410828 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090221/1235199344 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090803/1249309044 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090806/1249529743 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091220/1261338187 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100201/1264994513 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100319/1268965377

*8:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110206/1297010958

*9:「「自由とは何か(What is Freedom)」を引用したhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061031/1162269189も参照してください。

Between Past and Future (Penguin Classics)

Between Past and Future (Penguin Classics)

*10:“ What is Freedom”, pp.162-163

*11:The Life of Mind [Two Willing], pp.195-196

*12:1971年のメアリー・マッカーシー宛の書翰に、私は「風のなかの木の葉のように自由である」というフレーズあり(p.106)。