内藤朝雄 on 「いじめ」

http://www.harajukushinbun.jp/headline/406/index.html
http://www.harajukushinbun.jp/headline/408/index.html


そもそもはhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20061122/p1経由で知る。
内藤朝雄氏、「いじめ」を語る。「いじめ学」というのが既に成立してるんだ。すごい。
気になった部分を抜き書きしておく。
まずは前半http://www.harajukushinbun.jp/headline/406/index.htmlの方から。


―――こうした悪質ないじめが発覚すると、必ず起こるのが「最近の子どもたちはどうなってしまったのか?」という戸惑いの声だ。彼らが行っているいじめは、本当に我々が子供の頃にあったそれとは異質なものだろうか?


「まず断っておきたいが、悪質ないじめは時代に関係なく、閉ざされた濃密な人間関係の中にあっては必ず起こる。戦時中に集団疎開した世代が経験したいじめがいかに陰湿なものだったかは、彼らの回想録、文学作品などには克明に記録されている。現代の子ども特有の現象では全くない」

*1
また、内藤氏は「いじめ」を2つにわける――「暴力を伴ういじめ」と「コミュニケーション操作系のいじめ」。

「いじめの対処法は大きく分けて二つしかない。暴力を伴ういじめに対しては、市民社会における当然のこととして法システムに委ねる。すなわち警察や弁護士を学校に介入させる。私の知る限り、ほとんどのいじめは安全確認が済んだ状況で行われ、多大なリスクを覚悟してまで実行されることはない」

「一方、『シカト』や『クスクス笑い』といったコミュニケーション操作系のいじめは、警察に任せることはできない。また教員の能力にも個人差がある以上、現行の学校制度の枠内でベストを尽くすといっても限界がある。だとしたら、学校制度そのものを根本的に変えるしかない」

2つに分けるのは賛成である。しかし、後者を「コミュニケーション操作系」といってしまうのはどうかと思う。それはきわめて平板な社会行為観を帰結してしまうということなのだが、さらに〈悪意〉という心理的要因が究極的な原因として導入されてしまうことになる。状況から完全にディタッチメントして「コミュニケーション」を「操作」する超社会的な主体。その「操作」の動機としての〈悪意〉。しかし、実際には〈悪意〉がなくても「いじめ」が構成されることはあるし、〈悪意〉が存在しても「いじめ」が構成されないこともある。
後者の犯罪を構成はしない「いじめ」*2の解決については、後半http://www.harajukushinbun.jp/headline/408/index.htmlで語られる。所謂「学級制度の廃止」論である;

「あなたの子どもがクラスの誰かから人としての尊厳を踏みにじられるような行為を受けたとする。だが、こうした閉ざされた人間関係にあってはその子は無理に心を屈し、嫌われない努力をするほかない。『迫害してくる相手とは適度に距離を置く』という、一般社会では誰もがやっている心の調節を、子どもにだけ許さないのが現在の学級制度だ」

「本来、机を並べる相手は授業ごとに違っていていいし、いつもの教室で決まった相手と食べる給食ではなく、カフェテリアで気の合う相手と食事をするスタイルでもいいはずだ。部活動にしても学校に頼る必要はない。ドイツなどが典型だが、子供たちはスポーツや文化活動も学校とは別の地域クラブに所属して行い、そのたびに人間関係のバリエーションを増やしている。これに対しクラスという枠に固定され続け、ほとんどその範囲内でしか人間関係を選べないのが日本の子どもたちの現状だ」

「たまたま同じクラスに振り分けられたというだけで課せられてしまった、理不尽な人間関係から子どもを開放する必要がある。それぞれの子が、自分にとってより適切な人間関係を選ぶだけの選択の幅があれば、自殺にまで追い詰められるような危険な人間関係に甘んじる必要はなくなる」

「学級制度の廃止」というのは宮台真司氏も以前からいっていたと思うけれど、反対ではない。しかし、「学級制度の廃止」が問題を根本的に解決するとも思えない。寧ろ問題なのは、「学級」に対して過剰な意味賦与がされていることではないのか。「学級制度」を「廃止」するのかどうかはともかくとして、過剰な意味賦与を解除すること、唯名化することは必要だろう。
http://d.hatena.ne.jp/kechack/20061120/p1は、内藤氏の発言を踏まえたものである;

 いじめ問題の処方箋として内藤朝雄氏が提言している、子どもを学校という閉鎖的で一元的なコミュニティから開放するという意見はしごく尤もな意見である。「しかと」という行為も、多元的なコミュニティ環境下においては実効性を失い「いじめ」としての効力を失う。

 ただこの提言が広く世論に受け入れられるにはハードルがある。日本では政府の政策以前の問題として、国民世論として集団社会訓練の場としての期待役割が根強い。大人たちが交通や通信の進歩により閉鎖的な地域コミュニティから開放され、会社一家主義からも開放されて多元的なコミュニティを手に入れているにもかかわらず、自分の子どもには閉鎖環境における社会集団訓練を受けさせたがっているのである。これはなぜであろう?

 大人でさえも、昔の濃いコミュニティを懐かしんだり、愛社精神を見直すような言動も復活する昨今。必ずしも多元的なコミュニティが共通の理想になっていないことも注意しなければならない。

 閉鎖的で一元的なコミュニティでしか得られない、濃い人間関係から生まれる特別な感情というものがある。人生の中でこの特別な感情を手に入れたことがある人は、この感情を大事にし、その体験を子どもにも伝えたいと思う。部活や寄宿舎、軍隊などの人間関係などがそうである。

 内藤氏の意見は、学校をすべて開放するものであるが、実際に世論に受け入れられるためには、開放されたドライな学校と、集団行動を重視する濃い学校と、選択肢を用意するのがよいのではないか。後者に適応できなければ、前者に移動できるような仕組みを考えればいい。

面白い発想だとは思うが、気になるのは、一元的/多元的という軸と濃い/薄いという軸が交錯していることである。「閉鎖的」で「濃い」共同体としては、極限的なものとして〈恋人たちの共同体〉があるだろう。さらには、左翼・右翼の政治党派や宗教集団、或いは暴走族なども、「閉鎖的」で「濃い」共同体ではある。近代社会の原理からすれば、「閉鎖的」で「濃い」人間関係が欲しい人は、自らの意思でそのような団体に加入すればいいということになる。「閉鎖的」で「濃い」共同体は大概社会の主流的な価値に対してはカウンター・カルチャーの位置に立っており、世間的な基準からすれば、危なくて妖しい集団ということになる。そうすると、学校にそのような「閉鎖的」で「濃い」共同体の役割を期待するというのは、子どもたちに〈危なくて妖しい〉ということ抜きに「閉鎖的」で「濃い」共同体だけ経験させたいということなのだろうか。「閉鎖的」で「濃い」共同体というのは様々な共同体が並立する多元的な環境を前提とする。これは近代社会だからというわけではない。そもそも〈世間〉とは〈袖擦りあうも多生の縁〉的な薄い関係である。

*1:「」で括られているのが内藤氏の発言。

*2:上に書いたように、「コミュニケーション操作系」というのは反対なので、〈ディスコミュニケーション系〉といっておこうか。