伯剌西爾人排斥問題から共同体の存立を考えてみる

http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20070629にて知る。
先ずは『朝日新聞』の記事;


自治会がブラジル人転入阻止 「人権侵犯」と法務局通知

2007年06月28日09時07分

 日系ブラジル人3世の工員の男性(30)が、静岡県袋井市内に新居用の土地を買おうとしたところ、地域住民がブラジル人の転入阻止を決めたため、静岡地方法務局袋井支局が阻止行為を「人権侵犯」にあたるとして、住民らにやめるよう「説示」していたことがわかった。男性は「ブラジル人というだけで、マイホームの夢もかなわないのか」と肩を落とした。

 関係者によると、男性は昨年4月、同県磐田市内の不動産会社を通じて袋井市長溝に一戸建て用の土地約200平方メートルの購入を予定していた。契約前に不動産会社が地元に「買うのはブラジル人」と伝えたところ、長溝自治会の7班(当時12世帯)の住民が反発。ブラジル人の転入阻止を決め、その旨を不動産会社に伝えたという。

 7班に属する女性は「ブラジル人の事件が多く報道されていて、何か起きたら怖いというイメージがある」と話す。

 男性は結局、土地売買の仲介を受けられず、昨年5月、同法務局袋井支局に「人権侵害だ」と申し立てた。

 同支局は人権侵犯の事実を確認、今月6日までに、同自治会7班と不動産会社社長に対し「説示」の措置をしたという。

 しかし、長溝自治会の会長は「できれば入ってきてほしくないというのが本音。今後、ブラジル人がここに土地を買うとなった場合、どうしたらいいのか考えたい」と話す。

 男性は「ブラジル人のイメージが悪いのはわかる。でも自分はまじめに働いていて、日本語も話せる。あいさつに行って自分を見てほしかったが、『来なくていい』と言われた」という。男性は結局、同市内の別の場所に約160平方メートルの土地を購入して住宅を建設した。
http://www.asahi.com/national/update/0627/TKY200706270336.html

これについて、「長溝自治会」が醜悪で悪いのは決まっているので、http://blog.goo.ne.jp/kaetzchen/e/00812c75043cfcd95bf239fdc69ff2caのように、ただ怒っているというのは藝がなさすぎると思う。
さて、vanacoralさんは「ブラジルで反日感情が渦巻く危険性」を指摘されているが、ラテン・アメリカに関しては、〈フジモリ問題〉を通じて、日本とチリやペルーとの関係が拗れる懸念も既に指摘されており*1、これまでは日本の外交問題というと、日韓とか日中という亜細亜問題だったのが、これからはラテン・アメリカ問題ということになるのか。
しかしながら、ここで語ってみたいのはそういう問題ではなく、余所者(或いは異分子)と共同体の活性化という問題。この記事を読んで、「ブラジル人の転入阻止を決め」るまでの地元住民のウキウキ・ワクワク感みたいなものを想像してしまったからだ。多分、そういう意思の結束はメーリング・リストとかMSNメッセンジャーを通してではなく、夜毎夜毎の寄り合いを重ねて行われたんじゃないか。システム理論が教えるように、システムは(それ自身にとっては異者であろう)揺らぎを介して生成されるし、また活性化される。それまでは所謂集列状態(series)*2にすぎなかったのが、突然集団としての実感(コミュニティ感覚?)を伴い出す。それはオウム真理教が進出してきて反対運動が立ち上がるという場合もそうだろう。また、異分子は内部からも出てくる。例えば、和歌山カレー事件。或いは、http://d.hatena.ne.jp/ngmkz/20070626/1182862127で御教示いただいた奈良の「騒音おばさん」事件のその後の顛末を見れば、そのようなコミュニティ感覚を外部のメディアが煽り、さらには積極的に構築していくということもあるのだろう。今回の「静岡県袋井市」の社会学的・人口学的条件については審らかではない。ただ、(オウム真理教問題の場合もそうだが)余所者に土地を売った者がいるわけで、その意味では共同体的な結束には既に亀裂が走っているといってよい。外部に土地所有権が流出してしまうことに対する共同体(ムラ)の抵抗については、例えば吉田禎吾先生の古典『日本の憑きもの』(中公新書)とか。共同体というのはそのようにして活性化してしまうので、そのために異分子として排斥された(多くはマイノリティである)個人を共同体*3の本質的横暴に抗して救済するのは〈法〉の役目ということになるのだろう。「静岡地方法務局袋井支局」に関しては、最近読んだ或るインタヴューでスラヴォイ・ジジェク

And to take the United States as an example, I have to confess that 80 percent of the time, when there is a conflict between civil society and the State, I am on the side of the State. Most of the time, the State must intervene when some local right-wing groups want to ban the teaching of evolution in schools, and so on.
http://www.softtargetsjournal.com/web/zizek.php
と語っていることを想起する。
ところで、共同体は排除するだけが能ではなく、余所者と折り合いをつけていくメカニズムを内包している筈だ。これはイニシエーションという問題とも関わるのだが、洋の東西を問わず、また古今を問わず、例えばシャリヴァリもそうだが、共同体には〈儀礼的いじめ〉を通じて、余所者(異分子)を一見排除するように見せかけながら迎え入れるということが制度化されていた筈だと思うのだが、それはどうなっているのか。本当は、1990年代に世を挙げての大弾圧によって日本の大学から〈一気呑み〉が消滅してしまったのが悪いというのを落ちにしたかったのだが、そこまでは論理的に繋がらず。

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070622/1182519227

*2:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060416/1145158222

*3:言うまでもないが、伝統的共同体vs.近代的市民社会という二元論を持ち出して、後者を免罪しようと言うのは無駄である。これは幾分かでもコミュニティ的な要素を有する社会的結合には遍く当嵌まると思う。また、純粋にゲゼルシャフト的な社会の排除メカニズムは別様だろう。