「いじめ」は構成される、その他

当然のことながら、「いじめ」というのは物体のように存在しているわけではない。ある一連の出来事が起こって、それを当事者或いは観察者がその一連の出来事を「いじめ」と名付ける。それによって、「いじめ」は誕生するわけだ。或いは、こういうこともいえる。例えば、中学生が自殺するという出来事が起こる*1。自殺には原因とか理由、即ち動機がなければならない。そこで、自殺した人の生きた状況が詮索されて、それが新たに「いじめ」と名付けられ、自殺の原因としての「いじめ」が発見されるという仕方で、「いじめ」が誕生するわけだ。何がいいたいのかといえば、「いじめ」という出来事が社会的事実として存在するためには、ある一連の出来事の連鎖を「いじめ」として判断し・命名する、換言すれば構成(construct/constitute)する、しかしながら個人的な知覚だとか判断には還元することのできないはたらきが必要なのである。だから、例えば殴るとか蹴っ飛ばすとか即物的には同じ出来事なのに、「いじめ」として構成されることもあればされないこともある。勿論、「いじめ」と「いじめ」ではないものの境目、或いはどんな条件があれば「いじめ」といえるのかというのは、こうだと口に出していうことはできないにしても、commonsenseとして、何となく私たちによって共有されている(と少なくとも私たちは思い込んでいる)とはいえるだろう。だから、「文部科学省の統計報告がいじめ自殺をゼロとしてきた」というのは、「自殺」の動機として「いじめ」が構成されなかったということなのだ。文部科学省というか、その統計の元になったそれぞれの事例を報告した人を擁護するわけではないのだが、自殺した人だって、「いじめ」として構成され・名付けられる以外の状況も生きていた筈なのだ。それと自殺とが結び合わされるということだってありうる。話を戻すと、ある一連の出来事の連鎖を「いじめ」として判断し・命名する、その仕方の特徴のひとつは、その道徳的バイアスである。つまり、「いじめ」は悪いのだ。逆にいえば、もし悪くなければ「いじめ」ではない。ある一連の出来事の連鎖を「いじめ」として構成するということは、それを悪いこととして構成することである。とずっと思ってきた。
でも、違うらしい。井上英介「死なないで:いじめ・救いの手どこに 「いじめる方が悪い」 中高生は半数以下」という『毎日新聞』の記事*2によると、「ジェントルハートプロジェクト」というNPOが全国の小学生、中学生、高校生に「いじめ」についてのアンケートをしたという。それで、「いじめはいじめる方が悪いか?」という質問に「はい」と回答する人が中学生や高校生になると半数以下になるということに記者はショックを受けて、記事にしたということになるわけだ。私だったら、この質問にどう答えるのか。上にも述べたように、「いじめ」は悪いに決まっている。これは三角形の内角の和が180度であるのと同じ性質のものだ。だから、当然「はい」と応えるか。でも、そんな当たり前のことをわざわざ聴くということはあり得ない。盗人にも三分の理という諺がある。どんな悪い奴にも幾らかは事情とか言い分がある筈だ。それを考えると、「いいえ」か「どちらでもない」と答えるしかないか。こんな感じで、質問そのものがかなり変なのだ。「はい」と答えた子どもはたんに言葉遣いが正確だったということにすぎないのかも知れないし、「いいえ」か「どちらでもない」と答えた子どもは「どんな悪い奴にも幾らかは事情とか言い分がある」というこれまた至極当然なことを踏まえたにすぎないという可能性もあるのだ。別の訊き方をすれば、また別の結果が出たかも知れない。
勿論、「いじめ」はある。commonsenseによって考えて、「いじめ」だろうということは当然存在する。ところで、このNPOの理事の小森美登里さんという方の「優しい心で人とつながる方が心地よいということに気づいてほしい」という言葉はどうなのだろうか。勿論そう思う。ただ、一方では「いじめ」的な関係、他方では「優しい心で人とつながる」、それしかないって、それもまた極端な話だ。そんなのありえない。まるで世界には(純粋な)敵と味方しかいないみたいだ。話を変えると、世間にはどうしてもむかつく奴や徹底的にキモい奴はいる。そういう奴と「優しい心で」「つながる」というのは、御仏ならともかく、私たちにとっては、考えただけでもストレスが溜まってしまう。しかし、他方でそういう奴らとも何とかして共生していかなければならない。理論的にも実践的にも重要なのは、こういった準位での共生の作法、いや共生の技術なのではないだろうか。
あと、「いじめ」をなくすことの可能性/不可能性、もし可能だとして、その倫理的・政治的意味についてもいいたいことはあるのだが、もう眠い。

*1:自殺という出来事に関しても、即自的に存在するのはある人の死であり、その死を巡る様々な状況が結び合わされて、その死が自殺と名付けられることによって、自殺は社会的事実として存在し始めるといえる。また、自殺という社会的事実=出来事は、それを他殺とか事故死とか自然死と名付ける可能性を断念、或いは排除することによって存在し始めるといってよい。それは死という出来事に関しても全く同様である。心臓死か脳死かとか。

*2:http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20061107ddm041040166000c.html