多幸症の頃 - Living, Loving, Thinking, Again

四方田犬彦 *1「世界の凋落を見つめて」（in 『世界の凋落を見つめて』、pp.12-19）

曰く、

わたしは憶えている。かつて世界が一瞬だが善の方向へ、よくなろうとしていると信じられていたときがあった。１９９０年代の初頭、ソ連が崩壊し、壁という壁が崩れ、冷戦体制が崩壊したときのことだ。日本は異常なまでの好景気に見舞われ、それが泡粒のように消えていくことなど想像もできずにいた。
次々と思い出が甦ってくる。雑誌社の主催する年忘れ大パーティの最後に誰かが駆け込んできて、ベルリンの壁の破片を両手に掲げて披露した。たちまち拍手と喝采の声が挙がった。ゴルビー *2に今度のヴァレンタインのチョコレートを贈ろうと誰かがいいだし、その提案が全員一致で決議された。実はその年の初めには巨大な謎だった天皇が崩御し、民主主義と憲法を信奉すると宣言する皇太子が新しい天皇として即位していた。誰もがこれから世界は少しずつだが確実によくなっていくだとうという期待を、無邪気に抱いていた。
だがわたしたちは（「わたしたちは」と、わたしはあえて複数で語ろう）何も知らなかった。何も気付いていなかったのだ。わたしたちが浮かれ騒いでいたときにもパレスチナは屈辱的な状況に置かれていたし、中国と北朝鮮では独裁政権が頑強に存在して、強固な抑圧社会を築き上げていた。やがてユーゴスラビアが分離独立を始め、民族浄化と称して虐殺と破壊が行われた。ルワンダでは民族対立による大虐殺がなされた。またナイジェリアでも。（p.13）

なお、冷戦崩壊期の雰囲気を形容するための「多幸症」という言葉は以前https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/20090904/1251999170で使った。

*2:蘇聯の最初にして最後の大統領、ミハイル・ゴルバチョフ。