承前*1
四方田犬彦、中条省平「忘れ去られたひとびとの声を拾い上げる」『ちくま』(筑摩書房)569、pp.50-55、2018
小熊英二は結局「1968年」は特異点的ななにかではなく、戦後の経済発展の中で、親世代と学生の間で生まれた意識の齟齬から生じた一エピソードに過ぎないと言うわけです。『1968』という大著の結論は、学生たちの運動は拙劣であった、彼らはただ自分探しをしたかったに過ぎないということなんですが、ここからはアメリカで起こったベトナム反戦運動や黒人解放運動のような社会的な動きがいっさい読み取れない。彼が物心もついていなかったはずの「1968年」を矮小化する手つきは明らかに権力に奉仕するものですね。不思議なことに、彼はその本を書くにあたって、まだ作家なりアーティストなりその時代を生きた当事者が生きているのに、誰にも話を聞いていない。何を材料にしたかというと、官憲の資料と雑誌の記事だけです。そんなことでひとつの時代の全体が捉えられるでしょうか。
小杉亮子という京大の研究者の方が五月に『東大闘争の語り――社会運動の予示と戦略』という本を出したのですが、、彼女は山本義隆はじめ四四人の当事者に話を聞いている。それが面白いのは、最初、ノンポリ、ノンセクト、セクトの三つにわけて聞いていたのが、話を聞いていくうちにその分け方ができないと気づいてしまうんですね。その後、彼らが反原発や環境問題、フェミニズムなどに発展していく過程が彼ら自身の発言として記録されている。これは小熊の結論とはまったく逆で、実際のひとの語りを聞くか、雑誌のような活字として残った発言だけを取り上げるかという差異からくるものだと思います。
五月にパリに行ったときに、五月革命五〇周年ということであちこちでものすごく盛り上がっていました。たとえば国立公文書館に行くとまず機動隊の制服やヘルメットがずらっと並んでいる。そして政府要人の日記や手帳が公開されていて、あと、「パレスチナがんばれ」とか「パリは一人じゃない、東京があるぞ、ベルリン、バークレー、リオデジャネイロが待ってるぞ」というポスターが展示してありました。パリは東京を見ていたし、また東京でも安田講堂が陥落する前、神田に解放区ができて、ここを日本のカルチェラタンと呼ぼうということになった。当時、カルチェラタンってなにかわからなくて、のちにフランスに行ったとき、パリにもカルチェラタンがあったんだと思ったんだけど、もちろんあっちが本家ですね(笑)。
余談ですが、イランの映画監督のキアロスタミ*2を私に紹介してくれたひとはテヘラン大学で農業経済学をやっていてキアロスタミの同級生でした。彼が六八年にキアロスタミと一緒にテヘラン大学に入ったとき、まず校門の立て看板に「東京、パリに続け――テヘラン大学学生有志」とペルシャ語で書いてあって、みんなで日本語をやろうと思ったという話をしてくれました。日本はアジアでアメリカ帝国主義と闘っているので連帯しようというわけです。僕たちはテヘラン大学でそんなことが起こっていたのを知らなかったけれど、テヘランは確実に東京を見ていた。小熊の結論ではそういうことがすべて取りこぼされてしまう。(p.52)