鎌倉時代の段階では、「苗字」は本格的に出現していなかった。
加藤晃「日本の姓氏」(in 井上光貞ほか編『東アジアにおける社会と風俗』学生社、1984)に言及して。
加藤は、
(前略)鎌倉武士は北条、三浦といった苗字を名のっていたとみなされているが、これらは単独で地名以上の名前を意味するものではなかった可能性が高い点、それに対し一四世紀の南北朝内乱期以降、兄弟姉妹全員が相続権を持つ分割相続から、長男の単独相続へと財産相続の形態が変化したことによって、世代を超えて永続する家が成立し、この家という族的な組織自体の呼称として、はじめて苗字が登場した点などを明らかにされた。
つまり、あくまでも故人の名に冠された地名や職名が苗字化するためには、父から長男へと代々家産を継承する永続的な家の確立が、必要不可欠だったと言えるのである。(p.32)
(前略)一一八〇年(治承四)八月、源頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げた際、頼朝の挙兵に応じた三浦介義明の一族の名を、鎌倉幕府の歴史を幕府自身がまとめた書物『吾妻鏡』に探ると、義明の弟は筑井次郎義行であり、子息には和田太郎義宗、三浦次郎義澄、大多和三郎義久、多々良四郎義春、長井五郎義秀、杜六郎重行、佐原十郎義連らの名前があげられている。(略)この一族は父子関係がそれぞれ異なる地名を冠して呼ばれており、三浦という名が一族全体の名となっているわけではない。
また、北条についても、時政の子にしろ、義時の子にしろ、泰時の子にしろ、時頼の子にしろ、子ども時代は父親の官職名(国名)に次郎・三郎などを付けた名(相模三郎など)で、みずからの任官後は自身の官職名(駿州、武州など)で呼称されており、北条の名が時政以降、本姓のごとく子孫に継承されたという事実はないと、加藤氏は断言している。(pp.32-33)
(前略)三浦といい北条といい、鎌倉節の世界において苗字が成立しなかった理由としては、この時代の財産相続の形態が分割相続だったという事情があげられる。なぜならば、分割相続のもとでは世代を超えて継承される家に固有の財産、すなわち家産が存在しえないため、同一の経営体が世代の交代にもかかわらず存続し続けることは、原理的に不可能だからである。三浦義明の子息達が三浦を名のらずに、分割相続した所領の名をそれぞれ名のった事実は、それを如実にあらわしている。
これに対し、たとえば九州の島津氏の場合、鎌倉時代には北条と同様に官職名などを名のっていたのが、南北朝内乱期以降になると、島津という名がこの一族の間で特殊な意味を持つものと意識されはじめる(略)これこそまさに苗字の登場にほかならない。
南北朝内乱期と言えば、武士の財産相続の形態が変化し、長男による単独相続が一般化する時期にあたるが(だからこそ家督争いが激化して、それが内乱の長期化に拍車をかけた)、こうして単独相続を前提とした家産が成立すると、父から長男へと先祖代々家産を継承する、永続性を持った家が出現することになる。(略)世代を超えて永続する家は、それを構成する個々人から独立した組織体であり、そのような組織体を識別するためには、組織体独自の名が必要となってくる。ここに、家という組織体そのものを指し示す呼称として、苗字が成立したのである。(pp.33-34)