倭寇の後で

以前抜書きしておいた坂田聡『苗字と名前の歴史』の「東アジア伝統社会論」についての一節*1


(前略)それは、朝鮮史研究者の宮嶋博史氏や中国史研究者の岸本美緒氏らによって提唱されているもので、ひとことで言うと、宮嶋氏の場合は一四~一七世紀頃、岸本氏の場合は一六~一八世紀頃を境に、今日の私たちが自国の「伝統」だと考えるような社会システム・生活文化・習俗などが、東アジアの諸地域でほぼ同時期に形成されたと見る説だとえいる(宮嶋博史「東アジア小農社会の形成」、岸本美緒「現代歴史学と『伝統社会』形成論」)。
その際、宮嶋氏は経済史の立場から、東アジア諸地域においてなぜこの時期いっせいに「伝統社会」が成立したのかを問い、日本でも朝鮮でも、経済的・政治的な面で自立した小農民のの経営が、ちょうどその頃確立したことが、「伝統社会」の形成に大きな影響を与えた可能性が高いと述べた。
つまり、何らかの政治的な意図を持つ、持たないにかかわらず、「中国四千年の伝統」とか「日本古来の伝統」とかいったように、悠久の昔から超歴史的に連綿と続く「民族の伝統」なるものを声高に吹聴することはできないのであって、その多くは小農民の自立が達成されて以後、高々四〇〇~五〇〇年の「歴史と伝統」にすぎないとみなすのである。
「日本の伝統」と言えば(略)家制度が思い浮かぶが、家制度の歴史を四〇〇~五〇〇年と見る本書の結論は(略)「東アジア伝統社会論」の見通しを補強する。ただし、宮嶋氏は従来の日本近世史の「常識的な理解」にしたがって、日本における小農民の自立期=「伝統社会」の成立期を、江戸時代初頭の一七世紀に求めるが、日本の場合、小農民の自立よりもむしろその経営が家として代々継承されることの方が「伝統社会」の形成にとって重要だとすると、遅くも一五世紀中には小農民が自立を遂げ、一六世紀の戦国時代あたりに彼らのレベルでも家が形成されて、「伝統社会」が成立したと考えた方がよいのではないだろうか。(pp.174-175)
ここでメルクマールとされているのは「小農民の自立」だが、大藤修『日本人の姓・苗字・名前』*2を読んでいて、「伝統社会」(プロトネーション)の成立には別の側面が絡んでいるのではないかと考えた。それは「倭寇」である。

一四世紀以降、東アジアの海域では、倭寇勢力による海賊行為を伴う私的交易が活発に展開していた。中国・朝鮮側からは倭人の海賊とみなされ「倭寇」と呼ばれたこの勢力は、実態は日本のみならず中国、朝鮮、琉球などさまざまな国の出身者を含んでいた。彼らは、服装と言語を共通にしており、それは「倭服」「倭語」と呼ばれたが、日本の服装・言語とまったく同じなのではなかった。(pp. 158-159)
村井章介*3(『中世倭人伝』)の表現によれば、「なかば日本、なかば朝鮮、なかば中国といったあいまいな(マージナルな)」「特徴」を身に帯びた「マージナルマン」の集団たる「倭寇」の活動は「国家的ないし民族的な帰属のあいまいな境界領域を一体化させ、〈国境をまたぐ地域〉を創りだ」したのだった(Cited in p.159)。

倭寇勢力の創り出した「国境をまたぐ地域」に国家の楔を打ち込んだのは、豊臣秀吉であった。明帝国を中心とした東アジアの国際秩序が揺らぐなかで、国内統一を進めていた秀吉は、日本列島周辺の海上支配権を倭寇勢力から奪取して、海上交通の安全を「公儀」(国家公儀)として保障するために、海賊行為を禁止する措置をとった。
彼は、天正一四年(一五八六)頃より海賊行為の禁圧に乗り出しているが、同一六年には刀狩令と同時に海賊停止令を発した。主眼は海民調査にあり、海賊禁圧の徹底を名目に、海で生活する人々すべてを国単位に豊臣政権が掌握し、水主(水夫)として兵糧米輸送などに動員する体制を築こうとした。
秀吉は、他国出身の倭寇であっても日本国に永住することを望めば、「日本国民」となることを認める方針をとっていた。倭寇の名前は出身の国・民族によって多様であったであろうが、「日本国民」となった者は日本風の名前に改めたものと思われる。日本近世国家は、国内統一とともに、国境を越えて活動する倭寇勢力を圧伏することによって、成立したのである。(p.159)
多分、他国においても同様だった筈。例えば、

中世後期、朝鮮半島には多くの日本人が渡っていたが、朝鮮は倭寇対策の一つとして「向化」させて優遇する政策をとった。「向化」とは、朝鮮国王の徳を慕って帰化するという意味で、「向化」した日本人は「向化倭」と呼ばれた。その一人、日本名「兵左衛門」と思われる人物は、朝鮮では「表思温」と名乗っている〔村井章介―一九九五*4〕。「表」が性で、「思温」が個人名である。(pp.164-165)
なお、豊臣秀吉朝鮮侵略においては、多くの朝鮮人が日本側に拉致・連行されたが、「数万規模の人びと」が日本国内に永住した。

日本国内に留まった被擄人の大部分は農村に耕作者として投入されたが、彼らは日本社会への「同化」を余儀なくされ、日本式の苗字と名前に変えているので、史料的に彼らの実態を明らかにすることは困難になっている。しかし、キリシタンとして長崎で摘発されたことにより、出身と名前を記録にとどめることになった朝鮮人被擄人は、「川崎屋助右衛門尉」と日本式の屋号と名前になっている〔中野等―二〇〇八*5〕。
日本の近世は国家の「国民」把握と統合が強まり、社会的・経済的・文化的にも「国民」としてのまとまりが進んだ時代で、国民国家形成の前史に位置づけられているが、その初発から民族問題を抱え込んでいたことを見落としてはなるまい。(p.160)