前と後

坂田聡『苗字と名前の歴史』*1から。


これまで私は、室町時代を通じて庶民のレベルでもしだいに家名(苗字・屋号)が用いられるようになり、最終的には一六世紀の戦国期に家名の使用が一般化したと述べてきた。それはすなわち、ちょうどその頃に貴族・武士はもちろんのこと、人口の圧倒的多数を占める庶民に至るまで、父より嫡男へと父系の線で先祖代々受け継がれる家が確立したという事実を意味する。
だが、以上のような見解は、両側からの批判にさらされている。一方の側は中世のごく初期、時代で言うと鎌倉時代どころか平安時代後半の院政期頃(一一世紀の後半~一二世紀)には、すでに封建社会を支える小農民の農業経営が家という形をとって成立していたとするもので、古代史の研究者や中世前期史の研究者に比較的多い見解だと言える。
これに対してもう一方の側は、近世氏の研究者の多くのが支持する見解で、高校の日本史教科書でもお馴染みの、豊臣秀吉が行なった「太閤検地」によって、はじめて封建社会が成立し、中世において奴隷的な境遇にあった貧しい下層民がまがりなりにも自分自身の経営を持つようになって、封建社会の小農民として自立を遂げたとみなす。そして、それから半世紀ほどたった一七世紀後半には、それらの小農民クラスの農業経営もようやく安定して、先祖代々続く家になったと考える。
つまり、前者は「一六世紀などとんでもない。遅くとも一二世紀には庶民の家が確立していた」と主張し、後者は「一六世紀の戦国時代には一部の有力な上層住民は、確かに家を構えていたかもしれないが、彼らのまわりには、家と呼ばれるものなど持てるわけもない、不安定で奴隷的な下層民がたくさんいた」と主張するのである。(pp.171-172)

戦国期を重視する本書の立場に異論を唱える両説のうち、一二世紀に家の成立を求める説について言えば、そもそも自立した小農民による安定的な農業経営などが、平安時代に存在したかどうかもかなり疑問だが、仮にその段階に小農民の経営体が存在し、それが家と呼ばれたとしても、この家の土地財産は兄弟姉妹全員を対象とする分割相続によって次の世代にはバラバラになってしまい、単独相続の制度にもとづいて父親から嫡男に家産が伝えられることなどありえなかった。また、当時は夫婦別姓の時代であり、先祖代々継承される家名も、当然ながら存在しなかった。
ひとことで言うと、日本の家を特徴づける家名や家産の世代を超えた永続がないわけで、史料用語に家とあったからといって、それをもって日本人の意識と生活を規定した江戸時代以降の典型的な家制度の起源とみなすわけにはいかなないのである。(pp.172-173)
「分割相続」か「単独相続」か。