「悪僧」ではなかった

『読売新聞』の記事;


道鏡は「悪僧ではない」「仏教の礎を築いた」…寵愛受けた称徳天皇が建立、西大寺で法要
2022/04/09 14:04


 奈良時代に、女帝・称徳天皇(718~770年)から 寵愛ちょうあい を受けた僧侶・道鏡*1の1250年遠忌法要が7日、奈良市西大寺*2で営まれ、僧侶ら約30人が参列した。

 道鏡は、孝謙(のちの称徳)天皇を看病したことを機に重用され、役人と僧侶のトップ・太政大臣禅師に就いた。法王の位を賜り、権勢をふるったが、皇位をうかがったとされ、称徳天皇の没後は左遷となった。


 法要は、生誕の地の大阪府八尾市の市民団体「道鏡を知る会」が、悪僧ではなく、仏教の礎を築いた人物として、道鏡の業績を見直してもらおうと始めた。今年で20回目で、称徳天皇が建立した西大寺で毎年開催している。会員の高齢化に伴って、会は活動を終えるが、法要は継続を検討しているという。

 法要では、会が2020年に奉納した道鏡の木像(高さ約80センチ)の前で、西大寺の松村 隆誉りゅうよ 長老が、道鏡の功績をたたえる文を読み上げ、僧侶らが読経した。同会の副代表(76)は「会としての最後の法要を立派にしていただいた。多くの人に道鏡に関心を持ってもらえるように、法要を続けていただきたい」と話した。
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20220407-OYT1T50328/

2020年の『日本経済新聞』の記事;

道鏡、実は「悪人」の事績乏しく 名誉回復願い坐像
時を刻む

関西タイムライン
2020年10月22日 2:01


女帝に取り立てられ、皇位さえうかがった奈良時代の僧侶、道鏡(?~772年)。長く悪名が根付いていたが、出身地・大阪府八尾市の有志団体により、木彫の坐像(ざぞう)が作られた。ゆかりの西大寺奈良市)に奉納される。新たな像は歴史的評価塗り替えのきっかけになるか。

有志が像を奉納
くっきりとした目鼻立ちと、屈強そうな体つき。「道鏡禅師坐像」は像高84センチと等身大だ。威儀を示す如意(にょい)という棒を右手に持ち、正面を見据えている。

道鏡を知る会」(幾島一恵代表)が発願した。きっかけは、2016~17年の発掘調査で明らかになった巨大な塔の基壇だ。天皇も訪れた由義寺(八尾市)のものとみられ、1辺20メートル。想定を超える規模に、道鏡の威信の一端を重ね、坐像造立に名誉回復の期待を込めた。

制作したのは籔内佐斗司東京芸大大学院教授。籔内氏は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」も考案した彫刻家だ。

参考イメージにできそうな道鏡の肖像や絵巻物などを探したが「必要以上におとしめられた芝居の敵役のような悪相のものしかなかった」(佐伯俊源・西大寺教学部長)という。

悪名ばかり先行するが、道鏡に野心家らしい臭みはむしろ薄い。「強権的な専制を敷くといった悪人ならではの事績にも乏しければ、大経典を筆写奉納するといった、宗教指導者らしい目立った功績もない。どちらかといえば時代の奔流に踊らされたシンデレラボーイだった」。こうみるのは古代史が専門の瀧浪貞子・京都女子大名誉教授だ。

その理由ともいえるのが道鏡のスピード出世だ。退位していた孝謙上皇の病気を治した功績により、763年に「少僧都(しょうそうづ)」になる。翌年「大臣禅師」、翌々年に「太政大臣禅師」、その次の年には「法王」にまで上り詰める。大臣禅師以降はいずれも当時の制度にない僧位・僧階で、道鏡のために用意された。


この間、孝謙上皇は譲位先の淳仁天皇を廃して、出家したまま764年に再び即位する。重祚(ちょうそ)後は称徳天皇となり、西大寺創建に着手するなど仏教に重点を置いた政治を進める。理想政治の補佐役に登用されたのが道鏡だった。天皇に準ずる待遇が約束された。

栄華極め失脚
道鏡の前歴は、はっきりしない。葛城山で苦行を重ね、呪験力を身につけたという。その後仏門に入り、法相宗の高僧・義淵に学び、東大寺初代別当・良弁の使いをしたという記録もある。サンスクリット梵語(ぼんご))を独学で修めるなど、努力家でもあったようだ。

ただ、称徳天皇の寵愛(ちょうあい)を一身に集め、高位高官の廷臣らの拝賀も受けるほどになると、道鏡を見る視線は日に日に厳しくなった。頂点に達したのが、宇佐八幡宮大分県宇佐市)の神託事件だった。

道鏡皇位につかせれば天下太平になるだろう」との託宣がもたらされた。この真偽をたしかめに、和気清麻呂が派遣されたが、清麻呂が持ち帰ったのは「天皇の跡継ぎには必ず皇族を立てよ」という託宣だった。これを受けて道鏡はあえなく失脚。770年に称徳天皇が亡くなると、下野国(栃木県)に配流され、2年後に生涯を終える。

皇位に臣下がつくことはない」「天皇が即位したら日を置かず皇太子を決める」という大原則は、この事件を起点に根を下ろしていく。「皇位継承を巡って1世紀近く相次いだ内紛や粛清に終止符が打たれ、次の時代を地ならしした。そこに道鏡の意義があるのでは」(瀧浪氏)

道鏡像を奉納していただくのは、敵も味方も分け隔てなく処遇する仏教の理念『怨親(おんしん)平等』にもかなう。悪評を拭うきっかけになれば」(佐伯氏)。新坐像は孝謙上皇が発願した西大寺の聚宝館で25日から11月15日まで公開される。

編集委員 岡松卓也)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65273930R21C20A0AA1P00/

道鏡「悪僧」化は、多分称徳天皇以降「女帝」が江戸時代まで数百年間出現することがなく、現代でも「女帝」(女性天皇)に対する抵抗感が強いということと関係があるかも知れない。
中野美代子『中国春画論序説』を参照すれば、称徳天皇は日本版「武則天」である。中国の家父長制文化は「女帝」を実現するというとんでもないスキャンダルを起こしてしまった武則天に対して、彼女を「エロばばあ」として構築するという仕方で報復した。ただ、「エロばばあ」はエロじじいなしには存立しない。称徳天皇を日本版「武則天」として構築するに際して召喚されたのがエロ坊主としての道鏡だった。ただ、中野先生によれば、「エロばばあ」としての「武則天」というイメージが固まるのは明代のことなので、エロ坊主としての道鏡の構築も室町時代から江戸時代にかけて、ということになる。
また、それまでの日本では「女帝」に対するタブーはなかった。推古にしても持統にしてもネガティヴに語られることはない。この頃は、神功も神功皇后ではなく、天皇として即位していたとされていた。それなのに、称徳以降「女帝」は途絶えてしまう。この背後には、仏教と儒家との思想闘争があったのではないかと感じているが、たしかなことは言えない。