宇佐

『朝日』の記事;


宇佐神宮で後継争い 世襲家外した神社本庁に信者ら反発


大分県宇佐市宇佐神宮が後継ぎ争いに揺れている。昨年8月に死去した前宮司の後任を、神社本庁(東京都)が別の神社の宮司から選んだことに地元信者らが反発。地元側は2月下旬、長く宮司世襲してきた到津(いとうづ)家の長女を初の女性宮司に決め、神社本庁に脱退届を提出した。

 宇佐神宮宮司は長く到津家と宮成家が務めてきたが、戦後は到津家だけで世襲してきた。73年から宮司を務めた到津公斉(きみなり)氏(今年1月死去)が体調を崩したため、06年5月、宇佐神宮とかかわりの深い同県中津市の薦(こも)神社の宮司だった池永公比古(きみひこ)氏が後任についた。世襲家以外からの異例の人事だったが、公斉氏の長女でナンバー2の権宮司を務める克子(よしこ)氏(40)が、十分な神職の経験を積むまでのピンチヒッター役と見られていた。

 ところが、池永氏は昨年8月に病死した。宮司の選任は通常、信者らの責任役員会が人事案を決め、神社本庁の人事委員会で承認を得るのが慣例だ。責任役員会は克子氏を宇佐神宮で初の女性宮司に選ぶ考えだったが、神社本庁側は「克子氏ではまだ経験が浅い」と反対の意向だったため、宮司職は「空席」のままとなっている。

 一方、克子氏以外の神職は、神社本庁に「後任宮司は、神社本庁や県神社庁からお願いしたい」とする嘆願書を提出。神社本庁は2月26日、県神社庁長で同県玖珠町の瀧神社宮司を務める穴井伸久氏(60)を後任宮司に決めた。

 こうした動きに反発した克子氏と責任役員会は、穴井氏は責任役員会の承認を受けていないとして認めず、2月24日に開いた氏子総代会と責任役員会で克子氏の宮司就任を決定。28日には神社本庁に文書で脱退届を提出した。
http://www.asahi.com/national/update/0305/SEB200903050009.html

克子氏は「宇佐神宮宮司には一子相伝の就任秘儀があり、私だけが受け継いでいる。それを行えない者は宮司になれない」と強調。「都」での動きに「否」の“ご神託”を突き付けた。一方の穴井氏は「争いごとに似つかわしくない舞台でこんなことになるなんて。胃の痛い思いです」と話している。

     ◇

 〈宇佐神宮〉 全国に約4万8千社ある八幡宮の総本社。皇室にとっては伊勢神宮に次ぎ格式が高いとされる。国指定史跡で、本殿は国宝。創立は725年。769年に称徳天皇の勅使として神宮を詣でた和気清麻呂が神託を受け、皇位を望んだ道鏡の野望を阻んだとされる。
http://www.asahi.com/national/update/0305/SEB200903050009_01.html

八幡信仰の起源というのはよくわからないところがあって、中野幡能『八幡信仰』とか義江彰夫神仏習合』とかを引っぱり出してみたいと思ったが、手許になし。ところで、明治以降、それまでの社家による世襲から(世俗世界における廃藩置県に対応している?)中央から宮司を派遣されるという仕方で官僚機構の部品として組み込まれるという例はけっして少なくないのだろう。「皇室にとっては伊勢神宮に次ぎ格式が高いとされる」。ただ、平安以降は皇室にとって八幡といえば宇佐よりも石清水八幡宮だったのではないか。石清水八幡宮は源氏の氏神だったわけだが(岡野友彦『源氏と日本国王』、pp.70-72)、皇室本体にとっても伊勢と同格の宗廟として機能していた。中世において出家する場合、世俗の縁者とのお別れの儀礼と宴会を開かなければならなかった。お別れの対象となる世俗の縁者は家族親族、(武士の場合は)上司などだが、(佛教からすれば神道も世俗の存在なので)氏神も含まれる。或る上皇が剃髪する際の儀礼の図絵でお別れの対象として掛け軸で石清水八幡宮が勧請されているのを見たことがある。また、八幡宮で重要なのは東大寺との関係だろう。「興福寺にとっての春日大社にあたる」(『源氏と日本国王』、p.70)。
八幡信仰 (はなわ新書59)

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神仏習合 (岩波新書)

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源氏と日本国王 (講談社現代新書)

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