持統の子孫たち(保立道久on奈良時代2)

承前*1

保立道久「奈良時代的王権論」(徐洪興、小島毅、陶徳民、呉震(主編)『東亜的王権與政治思想――儒学文化研究的回顧與展望』*2復旦大学出版社、2009、pp.27-36)


ずっと奈良時代というのは天武天皇の子孫の天下で、所謂弓削道鏡事件を契機に、それまで傍流に甘んじていた天智系が復活して、そのまま平安時代へと至ると思っていたのだけれど、保立氏によればそれは父系にとらわれた見方ということになるだろう。
奈良時代的王権論」の第二節は「奈良王権的血統」と題されている。先ず、奈良時代天皇はたんに天武天皇の子孫なのではない。持統天皇が生んだ草壁皇子の子孫である(p.30)。また、持統は天智天皇の次女でもある(pp.30-31)。その持統が「奈良時代政治史之起点」であるということは、「在継承天武天皇的血統之同時、也通過持統而継承了天智天皇的血統、這才是奈良王朝的正統血統」(p.31)ということである。奈良時代にもまだ「男女双系之正統性観念」は生きていたことになる。
689年に持統の息子で皇太子だった草壁が逝去し、翌年正月にそれまで「称制」だった持統が正式に天皇として即位する。同年7月、天武の長男(母は宗形君徳善)である高市皇子太政大臣に就任するが、696年に逝去してしまう。そこで、持統は697年に草壁の子である軽皇子を皇太子に立て、8月に軽皇子は即位する(文武天皇)。文武天皇は2つの点で異例であるとされる。彼は15歳で即位したが、これは当時「空前」の若さであった。また、文武は即位と同時に藤原不比等の娘、宮子を「夫人」とし、紀朝臣竈門娘と石川朝臣刀子娘を「嬪」とした。当時天皇の「最正統的婚姻形態」は皇族の女子を娶ることであった。なので、「朝臣」の娘を娶ったことも異例(ibid.)。
保立氏は藤原不比等に注目する。高市逝去と軽皇子立太子の間に、不比等は「資人」の号を他の高官とともに賜給されている。さらに、698年8月には「藤原朝臣」の姓は不比等の子孫に限定されることが定められている。このことについて、保立氏は持統が文武と宮子の間に生まれる子どもを皇太子とすることを希望していたことを意味するという。事実、文武以後の皇統において天皇藤原氏の娘を皇后とするのが常となった。不比等は既に「王権的“親属(みうち)”即準成員的地位」をゲットしていたことになる(ibid.)。紀朝臣竈門娘と石川朝臣刀子娘は701年に生まれた首皇子(後の聖武天皇)が順調に育った713年に「嬪」号を剥奪されている(p.32)。保立氏は、『大鏡』や『帝王編年記』に記載されている、藤原不比等の母は天智天皇藤原鎌足に下賜した(「車持公」の娘である)「与志古娘」であるが、そのとき既に彼女は天智の子どもを宿しており、つまり不比等は天智の落胤であるという説は事実であるとしている*3。さらに、695年に不比等とその異母妹であり天武の「夫人」だった「五百重娘」の間に四男・麻呂が生まれている――「不比等與異母妹的這一婚姻也説明在持統天皇之下的貴族們容忍了藤原氏天皇之妃之間的不同尋常的関係」(ibid.)。


持統、元明不比等作為兄弟、対他的行動寄於期待、貴族們也予以容忍。大約其邏輯在於、在女帝発揮独自作用的前提下、其弟與叔父擁有補佐她的権力。在将不比等因作為天智之子而視為“親属(みうち)”這一点上、持続不断地作為王権構成原理的双系制具有重大意義・或許可説、不比等大致相当於補佐卑弥呼的“男弟”地位。
義江明子認為、在統治階層的集結、婚姻形態従双系制転型為父系制之際、“反復進行父系近親婚姻是依拠双系原理進行継承、相続之同時、実質性地確立起父系血統、実現財富積累的最有効且自然的方法”(《系譜様式論からみた大王と氏》、《日本史研究》474期)、即対於天皇而言、不僅存在近親婚姻、而且存在着通過向臣下下賜女性来控制臣下家産的方法。(ibid.)
ところで、この数百年後の平清盛白河院落胤だったというのが事実なのかどうかは知らない。ただ、事実にせよフィクションにせよ、平清盛藤原不比等を反復していたということになるか。
持統は702年に逝去、707年には文武天皇も25歳で逝去してしまう。元明天皇(天智の娘、草壁の妻)が707年7月に即位、714年6月には首皇子立太子元明天皇は715年に息子の元正天皇に譲位し、翌年不比等の娘、光明子が入内して首皇子の妃となり、3年後に女子(阿部内親王)が誕生。724年に元正天皇聖武天皇に譲位。727年に聖武光明子の間に男子が生まれ、その年の内に立太子するが、翌年には夭逝してしまう。その後、聖武光明子の間に男子が生まれることはなかった(p.33)。
奈良時代天皇継承原理を、河内祥輔氏は「新的直系原理」と呼んでいる(『古代政治史における天皇制の論理』)。それに対して、保立氏は、「直系」といっても純粋な「父系」ではなく、「父系」を主としつつ、「母系」もそれに次ぐ意味有しており、「双系制原理的特殊形態」であるという。不比等を通じて、母系は天智天皇の子孫と定まっていた(ibid.)。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100703/1278189948

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090919/1253330016

*3:不比等=天智落胤説を唱えるテクストとして、多田一臣「鏡王女贈答歌」(in 『ことばが拓く古代文学史笠間書院、1999)が挙げられている。