- 作者: 会津八一
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1969/06
- メディア: 文庫
- クリック: 4回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
1940(昭和15)年刊行の『鹿鳴集』に著者自らが註したもの。収められた歌は「南京新唱」*1の中の明治41年のものから昭和15年の「九官鳥」、「春雪」に及ぶ。作者の年齢でいえば28歳から60歳まで。
自らの言葉に事後的に註を施すという行為それ自体興味深いことだが、ここで施されている註の多くは、作者が使用している言葉の語義に関するものや仏寺・仏像についての解説である*2。註の中でも、作者の言語観を示すものとして興味深かったのを幾つか挙げてみる。
の「ありこす」に註して曰く、
西大寺の四王堂にて
まがつみ は いま のうつつ に あり こせど
ふみし ほとけ ゆくへ しらず も
また、
今日まで存在を続け来たれりといふこと。(略)ただ『万葉集』の「ありこす」には希願の意味を含めるも、作者のこの場合は、「勝ち越す」「借り越す」などの「こす」にて、意味は同じからざるなり。我等が『万葉集』の歌に於いて貴ぶものは、その詠歌の態度と声調とにあり。千年を隔てて語義の変遷は免かるべきにあらず。またこれを避くべきにあらず。ことに又、造語は、時に作者の自由として許さるべきことにもあれば、ひたすら幽遠なる上古の用例にのみ拘泥して、死語廃格を墨守すべきにあらず。新語、新語法のうちに古味を失はず、古語、古法のうちにも新意を出し来るにあらずんば、言語として生命なく、従つて文学としても価値なきに至るべし(「南京新唱」、p.49)。
の「つきかげ」に註して曰く、
唐招提寺にて
おほてら の まろき はしら の つきかげ を
つち に ふみ つつ もの を こそ おもへ
ところで、作者は「例言」にて、「著者は、さきに東京にて、戦災のために悉く蔵籍を失ひ、帰り来たりて故郷に幽居し、資料検索の便乏しきのみならず、齢すでに古稀を過ぐること数年、ことに最近血圧しきりに昂騰し、執筆意の如くならざるを、尚ほ床上に強起して稿を進めたることさへ屡なれば、篇中或誤脱なきを保しがたし」と述べており、1953年の初版刊行後も作者自身による改訂が続けられていた*3。桂昌院を「四代将軍家綱(1641-1680)の生母」とするは(p.63)は〈弘法にも筆の誤り〉的なミスで、五代将軍綱吉が勿論正しかろう。
上代の歌には「月光」を「つきかげ」と詠みたる例多きも、作者は、この歌にては、月によりて生じたる陰影の意味にて之を歌ひたり。作者自身も「光」の意味にて「かげ」を用ゐたる歌四五首ありて、別にこれらをこの集中に録しおけり。人もし言語を駆使するに、最古の用例以外に従ふべからずとせば、これ恰も最近の用例には従ふべからずとするに等しく、共に化石の陋見と称すべし(「南京新唱」、p.51)。
会津八一の奈良(南京)を詠んだ歌は既に有名であろう。それ以外で興味深かったのは、例えば関東大震災の時に詠まれた「震余」(大正12年9月)。
災害の平等主義的なパワー!*4 また、本所被服廠を詠んだ
おほとの も のべ の くさね も おしなべて
なゐ うちふる か かみ の まにまに(p.142)
また、戦時色濃い昭和15年の「九官鳥」*5。
あき の ひ は つきて てらせど ここばく の
ひと の あぶら は つち に かわかず
みぞかは の そこ の をどみ に しろたへ の
もの の かたち の みゆる かなしき(p.144)
なお、「後記」は短いながらも作者の自伝となっている。自ら詠うものを「和歌」と称していることは興味深い。自己認識としても所謂〈近代短歌〉の外にいたということか。