眠りから醒めた怨霊?

千葉望氏曰く、

近藤正高*1「ご存知ですか? 1月12日は奈良時代長屋王邸宅跡が判明した日です」https://archive.ph/G6oIQ#selection-439.0-439.33


曰く、


いまから30年前のきょう、1988(昭和63)年1月12日、奈良国立文化財研究所(現 奈良文化財研究所)が、平城宮跡の南東隅にあたる地点(奈良市二条大路南)で出土した木簡から、そこが奈良時代初期の皇族政治家・長屋王*2の邸宅跡であることが判明したと発表した。

邸宅跡と判明した場所では、1986年より発掘調査が行なわれ、出土した木簡は3万点を超えた。これらは長屋王家を支える家政機関に集まったもので、その内容からは、従来の文献史料ではわからなかった王侯貴族の家のなかの人や物の動きが具体的にあきらかとなる。そのなかで、長屋王家は、平城京に近い畿内の各地に所有する「御田(みた)」「御薗(みその)」と呼ばれる私有地から、毎日のように米や野菜を進上されていたこともわかった。ここで浮き彫りとなった王族の私有地の実態は、646(大化2)年の大化改新詔(みことのり)で示された公地公民制にもとづく律令体制が、701(大宝元)年の大宝律令の制定により完成にいたったとする従来の定説に対し、再考を迫るものであった(『週刊 新発見!日本の歴史 11号 奈良時代1』朝日新聞出版)。

なお、長屋王邸跡が確定された発掘調査は、百貨店建設予定地で行なわれたもので、調査後の1989(平成元)年には、当地に予定どおり百貨店「奈良そごう」が開店、記念碑が設置された。その後、そごうグループの経営破綻にともない同店舗は2000年に閉店し、03年には同じ建物にイトーヨーカドー奈良店がオープンした。しかしこれも昨年9月に閉店、現在改装工事が進められ、今春には奈良平城プラザ(仮称)という観光型複合商業施設としてリニューアルオープンする予定である。
「奈良平城プラザ(仮称)」は実際には「M!Nara(ミ・ナーラ)」となった;


タウンネット編集部「奈良県民が気になる「長屋王の呪い」 1300年の時を越え...なんで今?」https://j-town.net/2018/04/26259239.html?p=all


曰く、


ミ・ナーラのある土地は、もともと奈良時代の権力者である長屋王が住んでいた場所とされている。1989年10月に開業した「奈良そごう」の建設に先立って行われた発掘調査で大量の木簡が出土し、明らかになった。

長屋王は、謀反の疑いをかけられて、「長屋王の変」で自害に追い込まれた。その後、藤原不比等の息子4人が権力を手に入れたが、4兄弟とも相次いで死去。長屋王による祟りではないかと恐れられた。

それから約1300年。奈良そごうが2000年にグループの破たんに伴い閉店。そのあとを継いだイトーヨーカドーも17年に閉鎖に追い込まれたことで、この土地に建つ商業施設が閉店に追い込まれることを指し、「長屋王の呪い」として知られるようになった。

今回の「ミ・ナーラ」の開店を巡っては、毎日放送MBS)が記事において「"長屋王の呪い"は...ミ・ナーラ開店『供養は毎日やります』」と見出しを取るほど。ツイッター上でも、「長屋王の呪い」にひもづけたコメントがみられている*3

まる「現代でも続いてる?日本史で初めて怨霊となった悲劇の皇族「長屋王」の呪い」https://mag.japaaan.com/archives/107799


この記事も、


昭和から平成にかけて、奈良市二条大路南でそごうデパートを建設するための発掘調査が行われました。調査途中で、その場所が長屋王の屋敷跡である証拠が見つかったのです。

貴重な史跡であることからそのまま残そうとする動きがありましたが、聞き入れられずに奈良そごうは完成しました。しかし、奈良そごうは閉店になり、その後に建てられたイトーヨーカドー奈良店も2017年に閉店を迎えたのです。

元々アクセスが悪いことや競合店が多かったことも、閉店に繋がったと言われています。ただし、地元の人たちの間では、「また長屋王の呪いでは?」と囁かれているので、現代でも呪いは続いているのかもしれません。

と締め括られている。
ところで、そもそも長屋王は「怨霊」だったのかどうかという疑問がある。「怨霊」だとしても、発掘調査とデパート建設によって目覚めさせられてしまったわけで、1000年以上も眠っていたわけだ。長屋王の〈敵方〉である藤原四兄弟天然痘で死んで、朝廷側は長屋王の家族に対して世俗的な意味での名誉回復は行なっているけれど、宗教=呪術的な措置は行なっていないようだ。長屋王の「怨霊」を鎮めるための寺や神社も建立されていない。後に平城京自体が都として捨てられてしまったということもあるけど、結局、長屋王の一件は歴史の忘却に委ねられてしまった。「そごう」が建設されるまでは。
因みに、私の知識によれば、所謂御霊信仰*4が成立するのは平安時代に入ってから。長屋王もそうだけど、奈良時代の権力闘争は平安時代よりもずっと血腥かった筈なのに、何故御霊信仰がなかったのか? と考えたことがあるのだけど、ひとつの要因として、平安京平城京では都市化の度合いが全然違っていたということを挙げることはできるのだろうか。
話を戻す。


長屋王は怨霊か」https://blog.goo.ne.jp/amaterasu-eclipse/e/7faac5be87718fb22063be91a9f33f74


このエントリーには、「祟り」についての別の見解が述べられている。


そしてこの長屋王ですが、平安初期に成立した「日本霊異記」によると祟りを起こしています。
 事件の後、長屋王の骨を土佐に流すと土佐では死ぬ人が多く、このままでは長屋王の祟りで国中の人民が死んでしまうと訴えでます。それを聞いた聖武はもっと都に近いところに葬ってやろうと紀伊の沖の島に移した、とあります。

 このときの天然痘で事件の黒幕と考えられている藤原四兄弟天平九年四月から八月にかけて次々と死んでいます。日本霊異記の記述は藤原氏に遠慮したために改変されたもので、実際にはこの天然痘長屋王の祟りとされたのではないか、という発想が生まれてくるようです。
 一方、天然痘の流行が長屋王の死から時間がたちすぎていること、長屋王が祀られた記録がないことから後世に見られる怨霊とは異質として、この時点での怨霊思想の存在に疑問符をつける人もいます。

 私が注目したのは前々回に紹介した日食で、長屋王の死後7,8ヵ月後に起こっています。
 仮に天然痘天平六年に起こった日食の祟りと考えられたなら、人々は天平元年の日食を思い出し、この年に自殺を強いられた長屋王と結びつけたに違いありません。
 ただ長屋王が直接祟ったと考えたかはちょっと疑問です。書紀を見ると人間が祟ったとする記述は見当たりません。神の祟りなら幾つか載りますから、この頃には祟りは神の占有物で人間が祟るという概念はなかったように思われるのです。

 この天然痘の流行が日食の祟りとされた、という事は、つまり天照大神の祟りと解釈されたという事です。
 日本の神に善悪の区別はありません。例え祟りをなした神でも、丁重に祭り崇敬を捧げれば機嫌を良くして恩恵をもたらします。氏族を守護すべき先祖神でも、その祀りがおろそかになればへそを曲げて自らの子孫に罰を加えます。
 この際、祟りが強ければ強いほど偉大な神という事になり、与えてくれる恩恵も大きくなります。この祟りは天照大神への更なる畏敬を生んだと考えています。

 人々は天然痘長屋王を憐れんだ天照大神の叱責と解釈したと思うのです。
 だとすれば長屋王は無実に違いなく、藤原四兄弟の陰謀による物だった、と人々が考えるのは自然の成り行きとなります。
 長屋王の無実を証明したのは新たな証拠や証言ではなく、日食と天然痘だったのかもしれません。

重要なことは「怨霊」話の『日本霊異記』は平安時代の書だということだろう。つまり、同時代の人々が「長屋王」にどう反応したのかということを反映したものではない。さて、「日食」や「天然痘」が天照大神の「祟り」であり、「この祟りは天照大神への更なる畏敬を生んだ」というのは理屈としては納得しやすいのだけど、この時期に伊勢への朝廷の働きかけが増えて、アマテラスを祀る伊勢神宮の地位が向上したという証拠が見出せない限り、この説の信憑性は低いままなのだろうと思った。