心は少年? 或いは切腹の話

承前*1

あの右翼のおじさんは自供を始めたらしい。
『朝日』の記事なり;


容疑の右翼「閑職、死に場探していた」 加藤氏実家放火
2006年09月01日11時58分

 山形県鶴岡市加藤紘一自民党元幹事長の実家と事務所が全焼した事件で、現住建造物等放火などの疑いで逮捕された右翼団体幹部堀米正広容疑者(65)=東京都新宿区歌舞伎町2丁目=が、県警の調べに対し「(所属していた右翼団体で)閑職となり、死にたいと思った」と供述していることが31日、分かった。さらに「借金もあった。当時発言が目立っていた加藤氏の自宅で死ねば、右翼らしいと思った」と話しているという。

 県警は組織内の不満や個人的な問題に加えて、加藤氏の政治姿勢への反発などが絡み合った末の犯行だった可能性があるとみて、さらに詳しく事情を聴いている。

 県警は同日、堀米容疑者の身柄を山形地検鶴岡支部に送検した。

 加藤氏が小泉首相靖国参拝に批判的な発言を繰り返してきたことや、終戦記念日の犯行だったことから、県警は当初、靖国問題に端を発した加藤氏への抗議行動だったとみていた。

 調べによると、同容疑者は以前、東京都内の右翼団体大日本同胞社」の幹部を務めていたが、団体の相談役になった後、上部団体「忠孝塾愛国連盟」の常任参与になった。常任参与という役職に実態はないとされ、県警は堀米容疑者が組織内で孤立感を深めていたとみている。

 政治家の言論封殺を狙った事件では通常、犯行の直後に声明文などが出されるが、今回は見つかっていない。このため、県警内部では「思想的背景が積極的な動機とは思えない」との見方も出ていた。

 これまでの調べでは、同容疑者は15日夕、同県鶴岡市大東町にある加藤氏の実家に無施錠の玄関から侵入。持ち込んだガソリンをまいて放火し、実家と隣接する事務所「精三会館」の2棟計約380平方メートルを全焼させた疑い。実家には加藤氏の母親が住んでいたが、出火当時は散歩中で無事だった。
http://www.asahi.com/national/update/0901/TKY200608310387.html

この記事を読むと、なんだか周囲の人間関係に悩んで、その結果、キレてしまいましたという少年みたいな感じがした。勿論、それだけが強調されて、この事件の(反)政治性がオミットされるというのはまずいと思う。キレたからといって、無闇矢鱈に犯罪にはしったのではなく、本人にとっては〈政治的に正しい〉と思う仕方で、それも世の中のある種の空気の流れに沿うように、実行したわけだから。
「相談役」というのは、一般の企業では元会長とか元社長に対して、〈もう会社のことはいいですから、楽しい隠居生活を送って下さい〉というメッセージを込めて、与える肩書ですよね。この右翼団体でもそうだったのか。にもかかわらず、本人はまだ第一線で街宣車とかに乗っていたかった? その意味でも、心は若いというか。高齢化社会になると、定年退職とかによるアイデンティティ・クライシスが犯罪の引き金になるということも増えるのだろうかと無根拠なことを思いついてしまった。
ところで、

所属団体は「本人の信念」 加藤氏実家放火容疑者逮捕
2006年08月30日07時26分

 加藤紘一自民党元幹事長の実家と事務所が全焼した事件で、山形県警の調べなどによると、堀米容疑者は東京都内の右翼団体「忠孝塾愛国連盟」の常任参与と、その下部団体「大日本同胞社」の相談役に就いていた。

 大日本同胞社の棚田靖会長は29日、朝日新聞の取材に対して「本人の信念に基づいてやったことだろう。誰かに命じられてできることじゃない」と述べ、団体による組織的な関与を否定した。事前に実行をほのめかすような言動もなかったという。

 公安当局や関係資料によると、大日本同胞社は77年9月に結成され、同10月に政治団体の届けが出されている。総務省への届け出によると、収支報告はここ数年は0円で、資産も「なし」となっている。若い構成員を中心に、過去には尖閣諸島へ上陸したり旧社会党の集会に対する威力業務妨害事件で逮捕者を出したりしていた。
http://www.asahi.com/national/update/0830/TKY200608290383.html

という記事だが、こういう発言において、〈組織防衛〉ということが先ず考慮されるのは当たり前だということはあるが、なんだかクールすぎて、〈同志愛〉というものが伝わってこない。もしかしたら、たんに同志愛を熱く語っている部分が記事ではカットされているだけかもしれないが。もう20年近く前だが、小林多喜二が殺された場所である築地警察署に、右翼の街宣車が何台も集結していた。もう夕方だったが、偶々警察署の裏にある図書館にいて、うるせぇなと思いながら、外へ出たら、そんな感じだったのだ。築地警察署に逮捕された右翼の活動家が留置されていたらしく、〈◎◇同志、頑張れ!〉というシュプレヒコールが周囲のビルの壁に反響しつつ、大音量で繰り返されていたのだ。
この事件が報道されて、日本文化としての〈切腹〉ということについて、ちょっと思案した。〈切腹〉という所作を根拠にこの事件を〈朝鮮〉と結びつけるという言動をどっかでちらりと見て、おいおいと思ったということもある。以下では、だらだらと思いつきを綴ってゆく。
考えてみれば、それはたんに私の無知のせいだけかもしれないのだが、切腹という死に方がどのような経緯で日本社会に登場したのか知らないのだ。昔、千葉徳爾先生の『切腹の話』という本を読んだにも拘わらず。政治的に追い詰められて自害するというのは昔からあったけれど、奈良時代の人は切腹していない。長屋王も。平家一門も入水であって、切腹ではない。日本で最初に切腹した人というのは、その平家一門と同時代の源三位頼政だと何となく思い込んでいるのだが、これが歴史学的に確定した事実なのかどうかはわからない。ともかく、鎌倉時代になると、みんなが切腹するようになる。平家の入水というのは観音信仰と関係していることは間違いないだろうが、たしか村松剛『帝王後醍醐』では、鎌倉時代における切腹の一般化を武士層への禅宗の流布と結びつけていたと思う。切腹の自殺方法としての非効率性と切腹に先立って辞世の歌を詠むという作法によって、自殺はより自己意識的・内省的なものとなった。このような自己意識の変容は、村松によれば、禅によってもたらされたと。また、それが仏教といえば密教であった平安時代鎌倉時代以降の差異であるとも。但し、黒田俊雄の〈顕密体制〉論以来、それまでのような単純な〈鎌倉新仏教〉論は退潮している筈だし、そうでなければ、村松の本の本題である後醍醐の思想や実践も上手く説明できない筈なのだが。
考えなければいけないのは、切腹の意味が様々だということだろう。私たちが切腹のイメージとして、時代劇とかを通して擦り込まれているのは、江戸時代の切腹であり、そこでは切腹の意味というのは、お詫びであったり刑罰であったり、一言で言えば、〈責任を取る〉ということである。それに対して、中世の切腹は絶望とか敵へのルサンティマンというような感情の表現としてあったといえるだろうか。だからこそ、『太平記』に出てくるような、敵に向かって自分の臓物を投げつけるということも行われた。ところで、千葉先生の本では、切腹を巡る中国の説話がかなりまとまって言及されていた。それは大体、村で不義の妊娠という噂が立って、疑われた女性が切腹して、身の潔白を証明するというパターンである。これと日本の切腹が関係あるのかないのか、千葉先生の本も手許にないので、何もいえない。
ともかく、切腹の作法は江戸時代を通じて洗練されたとはいえるだろう。今回の事件に戻ると、その政治性とか何とかを捨象して、切腹ということに絞ると、感じられるのは、その非様式性だろう。つまり、切腹するなら辞世の歌くらい詠めよということである。作法が衰退したところでは、無作法な直截的な暴力が噴出する可能性はより高い。その意味で、先ず(小笠原流などの)お作法によって、身体を拘束し、暴力の噴出を抑制するという徳川幕府儒教的統治を賞賛するものであるが、それは現代社会に通用するものであるかどうか。これは左翼も右翼もやくざも〈伝統藝能〉として扱え、つまり管轄を文化庁に移せという(密かに思っているが、笑われるのが怖くて表立っては殆どいったことのない)こととも繋がっているわけだが。