中世な名前

東大寺の森本公穣師*1の16日付けのツィート;


良弁僧正*2については、鷲にさらわれた人だっけ、というくらいの曖昧な知識しかなかった。
東大寺の解説によると、

良弁僧正は、一説には持統天皇3年(689)、相模国さがみのくに:神奈川県)の漆部(ぬりべ)氏の子として生まれ、義淵(ぎえん)僧正に師事されたといわれるが、別伝では近江百済氏の出身で幼時に鷲にさらわれ、義淵僧正に育てられたともいわれている。東大寺の前身寺院である金鐘寺(きんしょうじ)に住したのち、東大寺の創建に尽力され、天平宝字7年(763)に僧正位に昇り、宝亀4年(773)閏11月16日に遷化された。
http://www.todaiji.or.jp/contents/function/buddha5.html
さて、


yoritomo-japan.com「良弁の伝説~東大寺・大山寺・石山寺~」https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/ryoben.html


これによると、鎌倉の長谷*3に「染屋太郎大夫時忠邸址」というのがあるという*4 。この「染屋太郎大夫時忠」というのは「藤原鎌足の玄孫」で、且つ「良弁僧正の父」であるそうな。本当かよ? 
私が怪しいなと思ったのは、先ず「染屋太郎大夫時忠」という名前。「時忠」というと平清盛の義弟を思い出してしまうというのはともかくとして、この名前、あまりにも中世的でしょ! 所謂日本的な名前というのが確立するのは平安時代以降なんじゃないか*5。だから、奈良時代以前の人名を見ると、これって日本人の名前か!? という凄くエクゾティックな感じがする。蘇我馬子にしても蘇我入鹿にしても小野妹子にしても、それから鎌足の息子の藤原不比等にしても。皇室関係にしても、大海人皇子天武天皇)とか、長屋王とか高市皇子とか。これらは平安時代以降の皇族とはネーミングのセンスが全く違っている。それに対して、「染屋太郎大夫時忠」にはそういうエクゾティシズムは全然なく、日本人の名前として自然に受け入れることができる。飛鳥時代ではなく鎌倉時代土豪として。
『大山縁起絵巻』などの文献が援用されているのだけど、これらの成立年代は何時頃なのか? 私は根拠もなく、中世以降なんじゃないの、と思ったのだけど、如何だろうか。
さて、良弁が生まれたのは689年。藤原鎌足が死んだのは669年。「時忠」は「鎌足の玄孫」ということだけど、ちょっと年代が近すぎるのでは? 因みに、藤原不比等*6は659年生まれ。良弁が生まれた年にはちょうど30歳。何が言いたいのかといえば、良弁が生まれた頃には、鎌足の子孫はぜいぜい孫の世代なのだ。「玄孫」が生まれるにはさらに数十年待たなければならないだろうと思った。
ところで、「染屋太郎大夫時忠」は鎌倉という土地の草分け的存在だったようだ。後世にその伝説が文字化されるときに、その名前が当世風の(モダンな)名前にすり替えられてしまったということはないだろうか?