8月11日、CSFの有志による〈アキバ・ツアー〉。
これについては、既に村井さんがmixiの方で報告をしている*1。
集合場所は、秋葉原ダイビルという新しいビルにあるエクセルシオール・カフェだったが、この青果市場跡地は間違いなく、秋葉原の〈最先端〉に中たるだろう。
参加者は、村井夫妻、五十嵐・渋谷夫妻、久谷さん、桑江君、千葉慶さん、山本太郎さん、清水知子さん、椋尾さん(夜の飲み会のみ)、そして私。
今回の〈ツアー〉では、秋葉原のイマジナリーな地理のうち、〈パソコンの秋葉原〉以外は、取り敢えずまんべんなく見て廻ったように思える。それは、
情報資本主義の先端としての秋葉原
オタク的秋葉原
マルティカルチュラルな秋葉原
秋葉原の古層
ということになる。
「情報資本主義の先端としての秋葉原」を象徴しているのは、近く開業が予定されている「つくばエクスプレス」*2であり、上述の青果市場跡地だろう。「秋葉原ダイビル」で目立っていたのは、稚内北星学園大学を初めとするITをウリにする大学のサテライトである。
これも秋葉原の特徴ということになるのだろうけれど、おしなべてマルティエスニック化が進んでいる日本における〈外国人〉の中のマジョリティ、つまり中国系、韓国系、アメリカ系以外の〈外国人〉が歩いている可能性が高い。ところで、「マルティカルチュラルな秋葉原」を象徴するスポットとして選んだのは外国人観光客向けの免税品店。家電製品が売られているその上の階では、ほとんど
フジヤマ
ゲイシャ
サムライ
というノリの土産物、いや〈いやげ物〉(みうらじゅん)が売られている。そのような掛け軸の中でも、ちゃっかりLAOXという文字が書き込まれていたりしているのも面白い。勿論、このような店は成田空港とかにもあって、今更驚くべきことではないのかも知れないけれど。
免税品店が駅前にかたまっているのに対して、「オタク的秋葉原」は秋葉原内の方々に分散しているようだ。フィギュアのショップ、ロリコン・コミックスを売っている書店、コスプレ用の衣装のショップ、「ガチャポン会館」等数軒を廻る。通の人によれば、意外と品揃えが少ないということなのだけれど、私にしてみれば、何でこんなぺらい本(同人誌)がうん万円もしているの?とか驚いたということはあった。
「秋葉原の古層」といったのは、再開発された青果市場跡地に隣接する一角で、時代がかった海藻問屋とか鶏卵問屋とかが今でも残っている。これは青果市場の繋がりによるもので、かつては(観光地化した)築地の場外には及ばないものの、それなりの賑わいがここら辺にもあったのではないかという思いが過ぎる。
〈アキバ・ツアー〉だったら行くっきゃないでしょうということで、〈メイド喫茶〉へも行った。また、路上でメイド服姿の女の子がビラを配っていたのだけれと、こちらの方は〈喫茶〉ではなく、マッサージ系でした。〈メイド喫茶〉だけれど、最初に見つけたところは、10人くらいの行列ができていていたので、スルー。2件目はすんなり入れたのだけれど、これって、ノーマルな喫茶店なのですね*3。「お帰りなさいませ」「行ってらっしゃいませ」というメイド的接客用語はあったけれども。そもそもこういう店というのは、清里辺りに〈メルヘンチックなカフェ〉としてあったものなのではないか。メニューの目玉はオムライス、\1200。メイドさんがケチャップでお絵描きをしてくれる。注文したのは何故か女性陣で〈ミッフィ〉と〈ドラえもん〉を描いてもらった。それから、カップルで〈メイド喫茶〉へ来る人もけっこういることに気づく。
実は、今回は訪問しなかったが、秋葉原のイマジナリーな地理にはもう一つある。つまり、昭和通り口である。これについては、佐々木俊尚氏のテクスト、「PC文化のメッカは本当に風俗店に占領されはじめたのか?」を参照されたい*4。
思ったのだけれど、例えばアキバのフィギュア・ショップで美少女フィギュアを買うオタクと〈バービー〉をコレクションしている女の子というのはどう違うのだろうか。
8月13日、mixiを始める。村井さん、ご紹介どうもありがとうございました。
8月14日、高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)を読了する。
最近の高橋さんのテクストは、正直言って、政治的には正しいのだろうけれど哲学的には或いは読み物としては面白くないものが多かったように思うが、この本はそんなことはない。この本の面白さは、〈靖国〉を肯定するような言説に寄り添いつつ、そうした言説を丁寧に読むことによって、そこで抑圧されているもの、或いは小さな綻びを露呈させてゆくという方法によっている。
第1章では、橋川文三が引用する〈靖国の母〉たちの語りの中に、〈感情の抑圧〉を見出す。例えば「中村」という母の語り;
ここから、著者は、「天子様」の「ありがたさ」「もったいなさ」を媒介とした、戦死を巡っての感情を「悲しみから喜びへ。不幸から幸福へ」と転換させてしまう「感情の錬金術」(p.43)を〈靖国〉の機能として見出す−−「靖国の論理は戦死を悲しむことを本質とするのではなく、その悲しみを正反対の喜びに転換させようとするのである」(p.54)。さらに、
(前略)中村は「もう子供は帰らんと思」うと「さびしくなって仕方がない」と語っている。そう語るやいなや、「お国のために死んで天子様にほめられていただいとると思うと、何もかもうれしゅうて……」と抑圧が働く。悲哀の感情が頭をもたげるが、ただちにそれは「お国のための」死、「天子様」のための死を喜ぶ感情によっておしやられてしまうのだ(p.34)。
ということが導かれる。
それ[「靖国の祭り(祀り)」]は本質的に悲しみや痛みの共有ではなく、すなわち「追悼」や「哀悼」ではなく、戦死を賞賛し、美化し、功績とし、後に続くべき模範とすること、すなわち「顕彰」である。靖国神社はこの意味で、決して戦没者の「追悼」施設ではなく、「顕彰」施設であると言わなければならない(pp.57-58)。
また、第4章では、「文化論的靖国論のなかでは最も洗練された部類に属する」(p.162)江藤淳のテクストが俎上に上げられる。ここで問題になるのは、江藤が「日本文化の根源」にあり、〈靖国〉の根本にあるとする「死者との共生感」である。著者はまず「根本的な疑問」として、「「死者との共生」がなぜ靖国という形をとらなければならないのか」と問う(p.163)。著者によれば、「その必然性」は「まったく不明であり、根拠に欠ける」。勿論、〈靖国〉で問題になっているのは、「戦死者との関係」であり、「広く「ご先祖様」一般との関係」ではない。それを引き受けた上で、著者は幾つかの疑問を投げかける。先ず、「戦死者との共生感が靖国という形をとらなければならない必然性はない」ということ。つまり、「靖国神社に参拝しなければ、お盆に戦死者を思い、正月の初詣でに戦死者を思うことができないわけではまったくない」(p.164)。また、「文化としての「死者との共生感」を言うなら、なぜ靖国は日本の戦死者のなかでも軍人軍属だけを祀り、民間人戦死者を祀らないのか」という疑問(p.165)。次いで、「戦死者との交感を言うなら、なぜ靖国は敵側の戦死者を祀らないのか」という疑問(p.166)。これに関して、著者は、
という事実を指摘している*5。
日本の中世・近世には、仏教の「怨親平等」思想の影響で、敵味方双方の戦死者の慰霊を行なう方式が存在した。北条時宗建立の円覚寺は文永・弘安の役(「元寇」)の、島津義弘建立の高野山奥の院・敵味方供養塔は文禄・慶長の役(「朝鮮出兵」)の、敵国と自国双方の戦死者の慰霊を目的としている(pp.166-167)。
江藤は「心にもなく敵味方の死者を弔うという偽善を行う必要がどこにあるのか。どこの国だって、自国の戦死者を、自国の風習と文化に従って弔っているじゃありませんか」という。これに対して、著者は、
死者との交感が日本の「文化」であると言うなら、なぜ外国人の死者が排除されるのか。「死者の魂と生者の魂との行き交いがあって、初めてこの日本という国土、文化、伝統が成立している」と江藤は言うが、沖縄、広島、長崎など「日本という国土」のうえで戦死しながら、なぜ、外国人戦死者は靖国から排除されるのか(pp.167)。
と指摘する。さらに、靖国から排除されるのは「外国人の戦死者」だけではない。「日本人」であっても、「時の「政府」の側すなわち天皇のいる側に敵対した戦死者」は排除されるのである(p.168ff.)。戊辰戦争における会津藩士のように。〈官軍〉による会津藩士の遺体に対する仕打ちに対して、著者は「古代ギリシャの悲劇、ソフォクレスの『アンティゴネー』を想起せざるにいられない」(p.171)という。勿論、日本の伝統における「敵味方供養」は外国との戦争に限られるわけではない(p.172)。
靖国の論理を日本「特有の」文化伝統から説明しようとしたのに、ここで江藤は、日本の文化伝統のなかに存在した「敵味方の死者を弔う」という方式を完全に無視して、「どこの国だって」している、日本に「特有」でない方式に訴えなければ、靖国を説明することできないのである(p,168)。
「内戦」の戦死者でも、敵側の戦死者はいっさい祀らないという靖国の「死者の遇し方」を、「『記紀』『万葉』以来」の「日本人」の「死者の遇し方」の延長に置くためには、敵味方供養のこうした歴史を、「日本人」の「死者の遇し方」の歴史から排除しなければならない。
その一方で、靖国化されたこの「日本の伝統」は、皮肉なことに、「日本固有の」ものではなくなっていく。それはたとえば、古代ギリシャのテーバイの王クレオンの「死者の遇し方」と瓜二つである。あるいはまた、アメリカ合衆国を二分した内戦(Civil War)=南北戦争後、勝利した北軍の戦死者を埋葬する墓地として誕生したアーリントン墓地に似ている。「日本文化」と「アメリカ文化」の違い、日本人の「死者の遇し方」とアメリカ人の「死者の遇し方」の違いから靖国を説明しようとした江藤にとって、靖国が日本の中世・近世の敵味方供養と異なり、アメリカのアーリントン墓地に似ているとしたら、いったいどうなるのだろうか(pp.172-173)。
第5章で論じられているのは、軍人軍属・民間人を問わず、また自国・外国を問わず、さらに〈政教分離〉原則にも反しない仕方で、戦争犠牲者を慰霊する施設ができれば、それでよいのかということである。そうした指向性を有した施設としては、例えば独逸の「ノイエ・ヴァッヘ」や沖縄の「平和の礎」がある。著者はそのような施設でも、常に〈靖国化〉の危険を孕んでいる(さらにそのような傾向が現にある)ことを説く。それは第1章で説かれた「靖国神社は(略)決して戦没者の「追悼」施設ではなく、「顕彰」施設であると言わなければならない」ということに関わっている。著者は、ギリシア(アテナイ)のペロポネソス戦争後のペリクレスによる戦死者葬送演説を引きながら(pp.201-204)、「国家が「国のために」死んだ戦死者を「追悼」しようとするとき、その国家が軍事力をもち、戦争や武力行使の可能性を予想する国家である限り、そこにはつねに「尊い犠牲」、「感謝と敬意」のレトリックが作動し、「追悼」は「顕彰」になっていかざるをえないのである」(p.205)と述べる。
「心にもなく敵味方の死者を弔うという偽善を行う必要がどこにあるのか。どこの国だって、自国の戦死者を、自国の風習と文化に従って弔っているじゃありませんか」。このように言うとき、江藤は(略)日本の武将が怨親平等思想から行なった敵味方供養のすべてを、「心にもない」「偽善」と決めつけていることになる。たしかに靖国は、自国の敵側の戦死者をも排除している点でアーリントン墓地の起源に、また、敵国の戦死者を排除して自国の戦死者のみを対象としている点で、アーリントン墓地だけでなく、英国の戦没者記念塔セノタフ(cenotaph)、フランスの無名戦士の墓、オーストラリアの国立戦争記念館、さらには、韓国の国立墓地・顕忠院、国立戦争記念館などに似ているのだ(pp.174-175)。
この本全体の結論はp.235ということになるのだろうか。あまりに素っ気ないかも知れないが、問題の本質を衝いていることは確か。
そもそもは医学教育用に開発された「紙の骸骨」が日本で大受けというAFPの記事を南アフリカのMail & Guardianが掲載している。これはうにさんのところで知った。