生類を憐れめ

姜尚中*1「生類憐みの令」『私のまいにち』743、pp.18-19、2021


曰く、


地球環境や生態系の破壊が気候変動の問題と結びついて、「地球にやさしい」再生可能エネルギーや、地球温暖化を抑制する二酸化炭素排出量の削減、化石燃料や化学製品に依存しないライフスタイルなどが話題になっている。そこには持続可能な開発と多様性、生命の循環などが大きな価値として前提にある。
そうした価値観の根底には、これまでのヒューマニズム人間主義)を超えて、生きとし生けるもの、この地球に生息するすべての生命に慈しみの眼差しを向けるべきだという視点の転換があるように思える。(p.18)

(前略)すべての生命を慈しむという、殆ど実現不可能なように思える理想を持ち続けたいと願うのは、私だけではないはずだ。にもかかわらず、私たちは、まるで家族の一員のように慈しんでいるはずの「ペット」である犬や猫が毎年、かなりの数にわたって殺処分されていることを知っている。犬と猫の殺処分は年間、数万匹に及ぶようだ。最近では、猫の殺処分数が犬のそれを数倍上回っているという。(ibid.)

問題の一つ一つを解きほぐし、殺処分を少しでも減らしていける決定的な打開策となると私の手に余るが、この際、思い切って「犬公方」と呼ばれた第五代将軍、徳川綱吉の「生類憐みの令」の現代版でも考えてみたらどうか、と思ってしまう。
綱吉の「生類憐みの令」と言えば、「悪法」の典型として何かと評判が悪く、私も綱吉イコール「愚昧な君子」というイメージしか持っていなかった。「犬公方」と揶揄されていた「将軍様」の気まぐれで「お犬様」が人間より尊いと見られたとすれば、滑稽を通り越してブラックユーモアとしか言いようがない。学生時代に綱吉の「生類憐みの令」を初めて教わった時のイメージはそんなものだった。
だが実際の「生類憐みの令」は、犬だけでなく、捨て子や病人、高齢者を保護の対象にし、さらに猫や鳥まで含んでいたのである。もっとも、過重な刑罰や行き過ぎた動物愛護で法令の乱用によるさまざまな被害が庶民を苦しめた面もある。ただ、それを封建制の時代の遅れた、「非人道的な」悪政のなせるわざと一蹴してしまう気にはなれない。なぜなら、20世紀前半の「破滅の時代」を決定づけた二度にわたる世界大戦だけでも2億人近くの大量死が起き、犬や猫の大量死は20世紀から現在に至るまで膨大な数にのぼると考えられるからだ。身分制の支配する封建制の時代と、「人権」が保証されているはずのヒューマニズムの時代である現代と、どちらが「野蛮」なのか、問い質したくなる。
戦争や内乱、恐慌のような非常時のとばっちりで死に至ったり、平時の市場原理で「商品」としての価値がなくて「廃棄処分」されたりする犬や猫の膨大な大量死は、おそらくは大量殺戮の始まりとなった第一次世界大戦以前は想像できなかったことではないか。この時代に綱吉が蘇ったら、「生類」の無残な死に怒りをあらわにするかもしれない。(p.19)

大袈裟に言えば、21世紀とは人間中心主義の文明的な価値観を可能な限り相対化し、人間が地球上のすべての生命との共存的な循環体系の一部へと慎ましく引き退いていかなければならない時代と言える。そうだとすると、まず自分たちの最も近しい「仲間」である犬や猫との共存から始めたいものだ。今後も犬や猫の殺処分を事実上、許容している限り、生命を育む、地球にやさしいライフスタイルなど、欺瞞だらけの醜い「美しい言葉」に終わってしまうからだ。(ibid.)
考えてみれば、1980年代に「生類憐みの令」に対して新しい視角を提供したのが塚本学『生類をめぐる政治』*2だった。ところで、大量の動物の「殺処分」の多くは感染症の拡大防止という名目で行わている*3感染症対策としての「殺処分」の必要性について議論が行われているのかどうかは知らない。例えば、「殺処分」は不可避だとしても、濃厚接触者に限定すべきだとか。
「殺処分」ということで最近最もショックだったことのひとつは、昨年丁抹でミンクへの新型コロナウィルスに関連して、国内の全てのミンク、1000万匹以上が「殺処分」されたことだ;


生田綾「ミンク1000万匹殺処分の現実。世界最大の毛皮オークションは廃業へ」https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5fc1a29cc5b6e4b1ea4b5e62