「どうにもならない」(姜尚中)

姜尚中*1「無心になること」『私のまいにち』(毎日新聞社)724、pp.18-19、2020


曰く、


やれやれ、長生きするといろいろな体験をすることになるようだ。いいことだけでなく、嫌なこと、大変なことも経験せざるを得ない。しかも、それが想定外の想像を絶するものであれば、「どうにもならない」と観念せざるを得ない。巨大地震津波原発事故、鉄砲雨のような集中豪雨に河川の氾濫、さらに世界的な金融破綻や気象変動と、この10年を振り返ると、そうした想定外の事象や出来事のオンパレードである。何とまあ、これでもかこれでもかと、「どうにもならない」ことが続くことか。(p.18)

どうしてこうも「どうにもならない」ことが立て続けに起こるのか。よくよく考えてみると、「どうにもならない」という思いが強いのは、逆にいうと「どうにでもなる」という考えに慣らされていたことの反動ではないのか。「どうにでもなる」という横柄な考えが強ければ強いほど、またそうした思考に慣らされていればいるほど、それが通用しない想定外の出来事に出くわすと、「どうにもならない」という思いも強くなるのかもしれない。
考えてみれば、そもそもこの世界の出来事や人間のやることは「どうにもならない」ものであるというのが、世の常だったのではないのか。第一、自分の身体ですら、「どうにもならない」のが人間の性である。それはたぶん人間の自然(ヒューマン・ネイチャー)に根ざしている。
それでも、私たちの中に「どうにでもなる」という意識が強くなってきたのは、どうしてだろうか。その有力な要因として挙げられるのが、科学の発達であり、また技術の進化ではないだろうか。
科学の発達や技術の進化は、人間を含めて世界を「どうにでも」操作できる能力がより高まっていくことを意味している。最近はやりの「AI(人工知能)」も、「どうにでもなる」という考えの集大成といえるかもしれない。極論すれば、AIによって将来、自然現象や社会的な出来事に伴う不確実性は極限まで縮減され、想定外なことなどはほとんどあり得なくなり、大抵のことが「どうにでもなる」とみなされるかもしれないのだ。
しかし、人間は不可避的に「身体」的な存在である。「身体」的な存在とは、感覚や感情、観念やイメージ、夢や理想もふくめて、ありとあらゆる人間的な表象がすべて「身体」との総合的な関わり合いの中で生まれたり消えたり、また変化したりするのである。
人間の心もまた、「身体」的な存在に宿る精神作用といえる。私たちを制約すると同時に私たちに可能性を与えてくれる「身体」性を抜きにして知能や観念を考えることが、いかに抽象的で一面的であるかは、今回の新型コロナウイルスの感染を見れば明らかである。
ウイルスは機械をその「宿主」とすることはできない。生きている、有機体としての人間の「身体」だからこそ、ウイルスはそれを「宿主」に選んだのである。ウイルスから完全に自由であるために、人間は自分の身体を抹消してただ知能の塊としての「脳」だけに縮約できるだろうか。そんなことは荒唐無稽なSFの世界である。(pp.18-19)

しかし「どうにもならない」という受動性こそ、「無心」に近い境地だと説いたのは、禅の研究で有名な仏教哲学者、鈴木大拙である。大拙は、「無心とは、絶対的な受動性」であると指摘している。それが何を意味するのか、ずっと考えてきたが、一瞬ではあれ、それに近いような「体験」をしたことはある。
かれこれ4年近く前、熊本地震に直面し、死の恐怖を味わった時、私は「生きてもいい」し、「死んでもいい」という、何か静かな境地になったのである。そうなると、不思議なもので、粛々と身支度を整え、自分でも驚くほどに落ち着いて避難場所に移動していたのである。その間、私は「どうにかしよう」という作為もなければ、ただ観念して悲嘆にくれていたわけでもない。「絶対的な受動性」としか言いようのない静かな覚悟、つまり「無心」のようなものが宿っていたのである。「無心」こそ、不確実な世界を生き抜くキーワードではないだろうか。(p.19)
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