批判する権利など

徳保隆夫「少数派の言論の自由と、命について」http://deztec.jp/design/10/05/18_life.html


口蹄疫問題を巡る「きっこ」*1の、


宮崎県の口蹄疫で牛や豚が殺処分されてる問題だけど、もともと人間が食べるために牛や豚を育て、肉の美味しくなる時期に屠殺場で殺し続けてきたことは何とも思ってない人たちが、「涙ながらに牛を殺した」とか「豚を殺した」という詭弁はやめて欲しい。
kikko_no_blog*2
2010-05-17 21:48:23
http://togetter.com/li/21910

@solaio 「お金にならないから」という理由での涙なら理解できますよ。私が「詭弁」だと言っているのは、これまでに数え切れないほどの牛や豚を殺してきた人たちが、今回だけは殺すことを「かわいそう」と言っているのが理解できないだけです。
kikko_no_blog*3
2010-05-18 01:49:31
http://togetter.com/li/21910
等々のという発言を巡って。
曰く、

リンク先に発言が掲載されている人々の中での多数派(以下、多数派と書く)の判断によると、きっこさんによるこの発言は「差別」なのだそうだ。畜産業に従事する人が傷付く言葉なので、きっこさんは反省して謝罪しなければならないらしい。私は、賛成しない。

牛や豚を利用するために「殺す」のは悪いことだ、という考え方がある。それは世間の多数派の意見ではないかもしれないが、思想・信条の自由は認められていいだろう。そして、憲法が擁護する思想・信条の自由とは、単に内面の自由のみを指すものではなく、その表現としての言論の自由をも含むものと私は解する。

表現の自由には制限があり、名誉毀損や侮辱は禁じられている。きっこさんを批判する人は、きっこさんの発言は畜産家を侮辱している、と主張する。

仮に多数派の意見を是とした場合、「少数派には言論の自由がない」ということにならないか。価値・道徳に関する話題において、多数派が正しいと考えている行為を間違っているといってはいけない、と。そうではない、というならば、きっこさんがどのような書き方をすれば、持論を主張しつつ、「侮辱するな」「差別するな」といわれずに済んだのか、正解を示してほしい。どのような言葉遣いをしたとしても、持論を述べることができないならば、「言論の自由は奪われている」といえるだろう。

たしかに、http://togetter.com/li/21910の範囲内においては、殆どの発言は「きっこ」に対して批判的だ。ただ、彼女は言っている−−「へえ〜、批判がいっぱい来るかと思ってたら、賛同が9割で批判が1割」*4。彼女自身には「少数派」であるという認識はないようだ。それから、「きっこ」を批判している発言も別に彼女の発言を禁止しろとかは言っていない。「きっこの発言に反発した人が、反発したって書き込んでるだけだろ」*5というわけだ。徳保氏の振る舞いというのは謂わばガキの喧嘩にお節介にも大人が介入して、一方に味方しつつ、偶々大勢に見えた方に対していじめはやめろとお説教を垂れているかのようだ。「言論の自由」をいうならば、じゃあ批判する自由はないのかということにもなる。
ガキの喧嘩なのだから、基本的にはどっちもどっちということで、喧嘩両成敗にするか放置しておくかなのだろうけど、「きっこ」の発言には黙って見過ごすことができない部分が含まれていることも事実だ。ここで畜産家と屠場の労働者が混同されているということはさて措く。

rna 人権 3には反対。屠殺者差別には日本では現在まで続く歴史があり、件の発言がヘイトスピーチと見做されても仕方がない状況がある。一方で今のところ日本ではヘイトスピーチ批判が即言論弾圧になるような制度も状況もない 2010/05/19
http://b.hatena.ne.jp/rna/20100519#bookmark-21623270
この問題は部落差別と結び付けられてきたというか、部落差別の一環として存在しているということは指摘しなければならない。詳しくは、鎌田慧『ドキュメント 屠場』とかを読んでいただくこととして、差別問題とかを離れて、「きっこ」の発言を批判するとすれば、問題となるのは「何とも思ってない」というフレーズだろう。「何とも思ってない」かどうか、そんなのわかるわけないだろう。ただ、一般的に言って、「何とも思ってない」 わけじゃないだろうと推測する証拠はある。日本では殺生を巡っては様々な「供養」文化が発達していることだ*6
ドキュメント 屠場 (岩波新書)

ドキュメント 屠場 (岩波新書)

さて、「殺処分」を巡る言説において、鎮魂とか供養という言葉が殆ど聞こえてこないのも気になる。勿論政教分離の原則の下で政府や地方自治体が宗教儀礼を主宰することはできない。というわけで、宗教界の反応というのを秘かに注視はしているのだ。