「あいつらだけずるい」など

http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20100523/1274575282


曰く、


 私が「新自由主義」と呼ばれるものが嫌いなのは、その社会観や経済理論そのものではない。むしろ、規制緩和や市場競争の強化を呼号する人たちのなかに、例外なく官僚・公務員から高齢正社員にいたるまでの「既得権益者」へのルサンチマンが蔓延している(少なくともそれを利用して自説を正当化する)ことにある。そこには例外がなくと言ってよいほど、「あいつらだけずるい」という集団主義的な感情が語られている。
この一節には共感するところ大なのだが、最後の「あいつらだけずるい」と「集団主義的な感情」の結びつきはよくわからない。個人主義者だって「あいつらだけずるい」という感情を発することはあるよ。寧ろ人類学者のGeorge M. Fosterが農民社会を特徴づける世界観として論じたimage of limited goodというコンセプトを念頭に置いた方がわかりやすい。これについてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071123/1195785068でも言及しているのだが、そこで示したフォスターの2つのテクスト;


“Peasant society and the image of limited good” American Anthropologist 67, 1965, pp. 293- 315

“The Anatomy of Envy: A Study in Symbolic Behavior” Current Anthropology 13, 1972, pp. 165-202


を再度提示しておきたい。フォスターによれば、農民社会(peasant society)に生きる人々にとって世界は閉じられており、それ故に世界内の諸資源は限定されている(limited)。限定されているのは物質的な諸資源だけでなく、名誉とか愛といった非物質的な諸資源も同様である。そこにおいて社会関係を調整する基本的な情動は「妬み(envy)」であるが、フォスターは、妬みは屡々「道徳的憤激(moral indignation)」のかたちを取ることもあるという。「あいつらだけずるい」ということだ。勿論(全体としての)現代日本社会を農民社会として特徴づけることはできないだろう。しかし、農民社会(日本風に言えばムラ社会)において形成された心性は、その基盤となる社会編制が変容しても、変形を蒙りつつ残存して、それなりの社会学的・心理学的機能を果たしているということは十分に考えられる。それについては(ニーチェ的な意味での)ルサンティマンの働きについて考察しなければならないが、それは後日*1
また、


断っておくと、これはもちろん単調な「新自由主義」批判、大企業批判を繰り返す左翼にも同様なことは当てはまる。一頃流行った「帝国」論が典型的だが、真正面からマルクス主義を掲げる人は皆無になったものの、どこかに全世界の人民を「搾取」しているモンスターがいるかのような想定で議論を構築している姿勢は相変わらずである。ただ幸か不幸か、こういう議論はもはや人文系の知識人のなかの「内輪ネタ」と化していて、日本社会の中のルサンチマンとまったく接点を持つことができずにいるのではあるのだが。
ともいう。ネグリ&ハートの「帝国」の議論ってそうだったんだっけ? 寧ろ反対に古典的な帝国主義論の「どこかに全世界の人民を「搾取」しているモンスターがいるかのような想定」が脱構築されているのでは? 勿論、左右を問わず、「ユダヤ権力」だか「悪徳ペンタゴン」だか知らないが、マニ教的とも言える〈隠れた悪の主体〉という議論をする人(所謂陰謀理論家)は掃いて捨てる程いる。以前陰謀理論と「主体性」を巡って、「モンスター」的な陰謀主体を定立することの主観的勝利に対する効果、世界の偶然性や複雑性を安直に克服する効果とかについて議論したことがあった*2。もうひとつ言えば、自己責任回避の効果だろう。