江戸時代の漢詩

荒川洋治*1「江戸も地域も輝く黄金期の詩境」『毎日新聞』2021年4月3日


揖斐高*2編『江戸漢詩選』(岩波文庫)の書評。


江戸時代、約二六〇年間に書かれた漢詩のアンソロジー。上巻(初期から中期)と下巻(後期・幕末)に一五〇人・三二〇首と、現代語訳、作者小伝を付す。数が多いのは菅茶山と柏木如亭の七首、頼山陽と六如の六首。新井白石らは五首。伊達政宗(「馬上少年過」の詩)、大塩中斎(平八郎)も登場。(後略)

集中もっとも魅せられたのは菅茶山(一七四八―一八二七)の詩。七言絶句「即事二首」。塾の前の柳の下の水流は「徹底して清らかなる有り」。唐詩を踏まえた、みごとな表現。終わりの二句は「童子倦来閑洗硯/奔流触手別成声」(学課に飽きた子供がここで静かに硯を洗うと、ほとばしるような水の流れが子供の手に当たって別の音を立てる)。「別の音」を添える点も鋭い。身近な景色に、詩の活動がある。
菅茶山は農業・酒造業の家に生まれ、上洛し、朱子学と医術を学ぶ。三四歳のとき、郷里の備前神辺(現在、福山市)に帰ると、廉塾を開く。山陽道随一の詩人とされた菅茶山のもとには、山陽道を往き来するたくさんの文人が訪れたという。
菅茶山だけではない。江戸や上方以外の地方都市、郷村を拠点とする詩人も輝いた。平野金華・磐城、宮沢雲山・秩父、赤田臥牛・飛騨、山村蘇門・尾張、野村東皐・彦根祇園南海・和歌山、頼春風・安芸、亀井南冥・筑前、三浦梅園・豊後、藪孤山・熊本など多数。家督を継ぐ、藩校で教える、塾を開く、遊歴するなど、地方とのつながりはさまざまだが、人々の行き交は折々に恵みをもたらす。『江戸漢詩選』を読んで、さわやかな気持ちになるのは、地域の詩人たちが、独創的な、とてもいいものを書いているからだ。これは一極集中の現代にはない光景かもしれない。
女性詩人の数も増加。上巻四人、下巻一〇人。(略)内田桃仙は江戸時代女性初の個人詩集を刊行。長玉僊は江戸深川で育ち、京都祇園で芸者。大崎文姫・下総(伊能忠敬の内妻)、多田季婉・越後黒川、梁川紅蘭・美濃(夫の星巖も詩人)、江馬細香・大垣、井上通女・丸亀、原采蘋・筑前、立花玉蘭・柳川らが各地で詩作をつづけた。

日本の漢詩は、中国の詩を承け、新たな道を求め、ことばの経験を積んだ。そして江戸時代の終わりに熟し、起承転結を果たした、とみてよいのかもしれない。近代に入ると、漢詩は次第に忘れられていく。始めたものは、それも文学の姿なのだろう。でも漢詩にはたくさんの、よいものがある。ことばに向かう姿勢と、決断。哀楽とは別の、淡い感情。静かな自分の時間。そして過ぎ去った時代と、人びとへの思いである。どれも大切なものだ。
「近代に入ると、漢詩は次第に忘れられていく」というけれど、話はそれほど単純ではないだろう。明治になって出現したのは、齋藤希史『漢文脈と近代日本』*3でも指摘されていたように、何しろ本物の中国大陸へ行ったり本物の中国人と交流するチャンスだったからだ。さて、この書評、「漢詩」に絡んで、2本の小説が言及されている。中村真一郎『雲のゆき来』と小田嶽夫朱舜水」。
以前読んだ、近世日本の漢詩のアンソロジーは、入矢義高編『日本文人詩選』。