揖斐高『江戸幕府と儒学者』

揖斐高『江戸幕府儒学者 林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い』(中公新書、2014)を数日前に読了。


まえがき


序章 方広寺鐘銘事件―林羅山評価の試金石
第一章 朱子学者羅山の誕生
第二章 御儒者の仕事
第三章 時代のなかの朱子学
第四章 読書家羅山と文学
第五章 二代鵞峰―守成への意志
第六章 『本朝通鑑』の編纂
第七章 鵞峰の自画像「一能子伝」
第八章 林家塾の教育体制
第九章 三代林鳳岡の憂鬱
第十章 赤穂事件
第十一章 新井白石との確執
終章 林家凋落の萌し


あとがき
主要史料・参考文献一覧
林家三代略年表

311を契機に「御用学者」なる人々が脚光を浴びたが*1 、日本史上最も悪名高き「御用学者」といえば、本書の主人公である林羅山に若くはないだろう。「まえがき」に曰く、

明治以後の近代日本の学問研究が、(略)林羅山およびその門流のあり方に対して貼り付けたレッテルには、「人間性を否定する封建教学の守護神」、「強権的な幕府政治に迎合する権力の走狗」、「思想的な独創性を持たない凡庸な儒者」というような、およそ罵倒に近いと言ってよい否定的評価の言葉が並んでいた。(pp.i-ii)
また、

(前略)林家関係の史料は昌平黌の蔵書を引き継いだ国立公文書館の内閣文庫を中心に膨大なものが現存しているが、何しろ長い間まともな検討に値しないと見られてきただけに、多くは原史料のままの保存であり、活字翻刻などの史料整備は極端に遅れていた。林家三代はそれぞれ没後に詩文集が出版された。それらは、初代羅山は六十冊、二代鵞峰は百五冊、三代鳳岡は六十七冊、このほか羅山の息子で鵞峰の弟にあたる読耕斎は三十冊、鵞峰の息子で鳳岡の兄にあたる梅洞は十六冊という冊数にのぼっている。これらのうち、三十年前の時点で活字翻刻が備わっていたのは初代羅山のものだけだった。後に二代鵞峰の詩文集が文集のみ影印本(原本の写真版)として出版され、三代鳳岡の詩文集も本書の原稿執筆中にようやく影印本が出版されたにとどまっている。(後略)(「あとがき」、pp.239-240)
本書において、著者は敢えて、林羅山=「曲学阿世」というイメージを決定的なものにした「方広寺鐘銘事件」、すなわち「国家安康」や「君臣豊楽」への「漢文の語法を無視した曲解に基づく誹謗」(p.17)から初めて、林羅山やその子孫たちが、どんな志を持って、どんな歴史的・社会的要請に応えて、またどんな内面的葛藤を抱えつつ、〈御用学者〉を続けたのかを、追跡している。林家三代は政治的クロノロジーでいえば、初代将軍徳川家康から八代将軍徳川吉宗にまで及ぶ。
さて、私たちは江戸時代の思想というと、(オーソドクシーとしての)「朱子学」あって、それに対して、例えば陽明学とか荻生徂徠古文辞学とか伊藤仁斎古義学、或いは国学が対抗するという構図を描いてしまいがちではないだろうか。実際、揖斐氏もこの図式を一部で引き受けている。しかし、本書を読んで再認識したことは、「朱子学」が決して一枚岩のものではないということだ。実際、林家の最大の天敵は木下順庵門下の朱子学者たち、例えば新井白石や室鳩巣だったわけだ。
そういえば、本書以前に同じ中公新書から出た江戸時代思想史の概説書である田尻祐一郎『江戸の思想史』では、崎闇斎は仏教批判という文脈で言及されているものの(p.63ff.)、林羅山は言及されていない。というか、「朱子学」一般に吸収されてしまっているという感じ(pp.74-75)。最近の論で林羅山への肯定的な言及が見られるのは、先崎彰容『ナショナリズム復権*2。というか、林羅山を肯定的に評価した江藤淳に対する肯定的な言及(第5章「ナショナリズムは必要である――江藤淳『近代以前』)*3
江戸の思想史―人物・方法・連環 (中公新書)

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ナショナリズムの復権 (ちくま新書)

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