「近世後期の訓読」

「漢文」に関して、


漢詩のかっこよさ」*1。以前にもちょこっと考えたことがあるのですが*2、漢文の魅力っていうんでしょうか。一言でいうと、〈ぶっ壊れ〉感というんでしょうか。中国語としても日本語としてもぶっ壊れているという感じ。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131118/1384793683
と書いたことがあったのだが、それと関連して(?)齋藤希史『漢文脈と近代日本』*3から少しメモ;

訓読と一口に言っても、時代によって大きな変化があるのです。おおざっぱに言えば、山陽*4の時代、すなわち近世後期の訓読は、それ以前の訓読に比べて、漢語を和語に置き換えずに字音でそのまま読む傾向が強くなり、また、副詞や動詞への送り仮名の付け方も定型化して、読み上げられたものを耳にすると、日常の言語とは違う一種の人工的な言語であるかのような響きが強くなっていました。それは基本的には現在も踏襲されている訓読法です。「権利ノ行使及ヒ義務ノ遂行ハ信義ニ従ヒ誠実ニ之ヲ為スコトヲ要ス」*5という、あの響きを思い起こしていただければよいでしょう。(pp.72-73)