井上円了の「仏教」論(立川武蔵)

立川武蔵井上円了の仏教観とその意義」『satya』(東洋大学井上円了記念学術センター)24、pp.34-36、1996


井上円了*1は仏教の諸宗派を以下のように分類している;


「仏教」を円了は智力的宗教(聖道門)と情緒的宗教(浄土門)に分け、前者をさらに(1)有宗(小乗)、(2)空宗(権大乗)および(3)中宗(実大乗)に分ける。そして、倶舎宗は(1)に、法相宗三論宗は(2)に、天台宗華厳宗真言宗は(3)に属すると考えた。この六宗は円了にとってインド仏教をも一応視野にいれた仏教理論全体の諸側面を代弁するものであった。彼はこの六宗によって「智力宗教」のシステムを説明しようとするが、その際、以下の二点を前提として考える。すなわち、(a)各宗の理論が実体(理)と現象(事)の関係を軸に展開していること、および(b)仏教は、現象より実体(理体)に入り、しばらく実体にとどまるが、実体より現象に入り、現象にとどまるという一種の円環運動を主張しているというのである。(p.35)

円了によれば、倶舎宗は現象世界の本体(実体)が真に存在すると主張する。(略)法相宗が現象世界と真如(本質)との両者を区別して、いわば二元論的に考えていると、円了が理解した(略)円了によれば、三論宗は理界すなわち本体のみが存在し、事界(現象世界)は存在しないと主張する(略)倶舎宗から三論宗までの歩みは、宗教実践の過程の前半に相当する。つまり、現象世界(事)から本体(理)までの歩みを示している。「俗なるもの」から「聖なるもの」への歩みを示していると表現することも可能であろう。(ibid.)
立川氏は、井上円了仏教論の意義を、聖俗論に依拠して、以下のように述べている;

現象世界から本質へと進む際、現象世界は少なくとも一度は否定されねばならない。本質に至ったとしても、日とは本質に住み続けることはできず、現象世界へと戻ってこなければならない。単に現象世界に戻るというのではなくて、本質を見てきた経験を現象世界の中で生かしながら、現象の中で住むのである。このように円了の仏教教判は実践の時間構造を軸としたものであった。
この構造は「聖なるもの」と「俗なるもの」という「宗教における二極」の概念を用いて表現するならば、次のようにいうことができるであろう。すなわち、「俗なるもの」としての現象世界から「聖なるもの」としての本質へと至り、「聖なるもの」から再び「俗なるもの」としての現象世界へと戻るのである。この際、単なる「俗なるもの」へと帰るのではなくて、「聖なるもの」の力によって「聖化された俗なるもの」のなかに生きるのである。
現代のわれわれもまたわれわれ自身の「教判」すなわち「思想の水平を定めてなされる思想史の
再構築」をなすべく求められている。円了の偉大さはそのような思想史の再構築モデルをわれわれに残したことだ。(p.36)