「ドラえもん」とユートピア(よしもとばなな)

承前*1

デッドエンドの思い出 (文春文庫)

デッドエンドの思い出 (文春文庫)

よしもとばななの短篇集『デッドエンドの思い出』では、同じような「ドラえもん」と「のび太」のエピソードが全く違うストーリーの中で、使われている。著者によれば、この本に収められた短篇は「なにひとつ時分の身に起きたことなんか書いていないのに、なぜか、これまで書いたもののなかでいちばん私小説的な小説ばかりです」(「あとがき」、p.242)。吉本ばななは「ドラえもん*2について、何か強い記憶があるのだろうか。
「あったかくなんかない」。「私」の幼馴染「まことくん」が死ぬ直前のこと。「私」の家にて;


最後の夜、まことくんは帰りたがらなかった。
(略)
まことくんは私の胸に顔を埋めていた。本をひざに開いたまま、じっと、埋めていた。泣いているわけではなくて、ちょうど犬が体にすりよってくるように、ぴたりと私にくっついていたのだった。ちょっと濡れたような鼻息が、私のブラウスを温かく湿らせていた。
「帰りたくない、こわい。」
まことくんは言った。
私は、まことくんの細い髪の毛をそうっとなでて、大丈夫だよ、と何回も言ったけれど、空気が重くのしかかってくるのがよくわかった。不吉な気配が窓からのぞいているようだった。この世の光や、とんぼの羽根の透明さだとか、和菓子の表すきれいな四季だとか、川沿いの桜のほの明るいピンク色だとか、おいしいものをこれから食べるときの気持ちだとか、旅行へ行く前のどきどきだとか、そういうもの全てから、私とまことくんは遮断されてしまい、この夜は決して明けない、そういう気がしてきた。
「いつか結婚して、帰らなくていいようにしよう。」
私は、その頃から結婚がなにか決定的なもので、だからこそ今、多少折り合いの悪い両親が困っているだとか、まことくんのお父さんが浮気してもお母さんと離婚せずに家族が続いているだとかいうことがわかっていたので、とにかく何かこの世の中のよきこととまことくんをつなぎとめておくための重しとして、その言葉を言った。
まことくんはちょっと笑って、恥ずかしそうにして、
「そうしたら楽しいだろうなあ。ずっといっしょにいて、本を読んだり、おやつを食べたりできるんだ。ドラえもんのび太みたいに。」
「それって男同士の話なんじゃない?」
私は言った。自分なりのロマンチックさの勢いがそがれたので、不満をおぼえて。でも、まことくんは全然悪びれずに、うっとりと言った。
「でも、あれが僕の理想の光景なの。ふすまの前で、ふたりともざぶとんに寝転がって、いっしょにどらやきを食べながら、マンガを読んでいるでしょ?」
「あんなどらやきでいいの? まことくんは。」
「うん、丹波の栗とか入っていない、皮もちゃんとしていない、普通のどらやきでいいの。」
まことくんは言った。
その時だけ、まことくんの顔はちょっと幸せそうにほころんだ。
まるで桜のつぼみが開くみたいにふわっと、甘く。(pp.148-151)
「デッドエンドの思い出」。「私」(「ミミちゃん」)と「西山君」が公園の芝生でランチをしながら、「幸せ」について語り合う;

(前略)
私は西山君の幸せな顔が好きだった。彼にはいつだって何か特別なものがあった。それはもちろん幸せというものに関することなのだが、どうしてもそれははっきりと言葉にできないものだった。
「ねえ、西山君にとって、幸せってどういう感じなの?」
私は言った。
「なあに、それってむつかしい話?」
西山君は言った。
「ううん、幸せって言うと何を思いうかべるか、っていう話。」
私は言った。
「ミミちゃんはどうなの?」
西山君は言った。
人に聞いておいて自分は答えられないなんておかしいものね、と思いながら、私は何かが思い浮かぶのを待った。
その間、五分くらいだっただろうか。
ふたりは黙ってただ並んで足を投げ出し、芝生に座っていた。たまにポテトを食べながら。
「私は、のび太くんとドラえもんを思い出すな。」
私は言った。
「なんだよ、漫画の話じゃないか。」
西山君は言った。
「私はその絵が描いてある小さな時計を持っているの。のび太くんの部屋のふすまの前で、ふたりは漫画を読んでいるの。にこにこしてね。そのあたりには漫画がてきとうにちらばっていて、のび太くんはふたつに折ったざぶとんにうつぶせの体勢でもたれかかって、ひじをついていて、ドラえもんはあぐらをかいて座っていて、そして漫画を読みながらどら焼きを食べているの。ふたりの関係性とか、そこが日本の中流家庭だっていうこととか、ドラえもんが居候だってことも含めて、幸せってこういうことだな、っていつでも思うの。」
私は言った。
「じゃあ、今の俺たちは、それにそっくりじゃない。君、まさに居候だし。」
西山君は言った。
「晴れてあったかい芝生の上で、おいしいもの食べて、親しくて、くつろいでいるよ。」
「うん、だから今、幸せかも。」
私は言った。(pp.185-187)