再び「吉本」

千野帽子*1吉本ばなな「自殺が近づいて来たなと思ったら、落ち着いて生活を整えてください」」http://www.excite.co.jp/News/reviewbook/20150722/E1437468067577.html


よしもとばなな*2が筆名を再び「吉本ばなな」に戻したんだということに気づく。
それを数か月遅れで知った前後に、(平仮名時代の)『デッドエンドの思い出』という短篇集を読了した。


幽霊の家
「おかあさーん!」
あったかくなんかない
ともちゃんの幸せ
デッドエンドの思い出

あとがき
文庫版あとがき

これを読み出したのは、ひとつにはカヴァーに使われている合田ノブヨという人の絵がちょうど今の季節っぽかったからというのもある。読んでいて、心がほっこりしてきたというのも事実。「心が辛いときに読む」べきよしもとばななの本の筆頭にこの短篇集を挙げていた人がいたけれど*3、まあ肯けることだ。勿論、例えば

これを書いているのはともちゃんではなくて、ともちゃんの人生をかいま見た小説家なのだが、その小説家も実は自分が書いているのではなく、何か大きなもの、ここでは便宜上神様と呼ばれるものに、頼まれて書いているのだ。
「どうして私が? どうして私だけにこんなことが?」という身を裂かるような疑問を、今日も世界中で大勢の人が発している。そう、神様は何もしてくれない。ともちゃんのお父さんの目を覚まさせることもできなかったし、ともちゃんがレイプされているのを天からの雷かなにかで止めてくれることもなかったし、ともちゃんがひとりぼっちで病院の庭で泣いているのに、突然現れて肩を抱いてくれることもなかった。
三沢さんとともちゃんがうまくいくとも限らない。あるいは北海道に一緒に行くかもしれないが、ともちゃんの貧乳や乳首の黒さを見て三沢さんががっかりするかもしれないし、ともちゃんの持つ得体のしれない悟りの雰囲気が、彼をひかせるかもしれない。あるいは、その神秘にどこまでもひきつけられて、ふたりは結婚するかもしれない。結婚したって、ともちゃんがずっと幸せとは限らない。三沢さんもいつか、お父さんのように若い女と逃げてしまうかもしれない。
いずれにしても神様は何もしてくれやしない。
でも、それは神と呼ぶにはあまりにもちっぽけな力しか持たないまなざしが、いつでもともちゃんを見ていた。熱い情も涙も応援もなかったが、ただ透明に、ともちゃんを見て、ともちゃんが何か大切なものをこつこつと貯金していくのをじっと見ていた。
お父さんが秘書にひかれていくのを見て、とてもとても傷つき、夜中に何回も寝返りをうったともちゃんの胸の痛みを、丸く縮こまった背中を。小さいときには一緒に遊んだ場所で、幼なじみの欲望に打ちのめされたともちゃんの感じていた、固く嬉しくない地面の感触を、そのあとひとりで歩いて帰るともちゃんのぼうっとした悲しい顔を。
そして、お母さんが死んだとき、最高に孤独な夜の闇の中でさえ、ともちゃんは何かに抱かれていた。ベルベットのような夜の輝き、柔らかく吹いていく風の感触、星のまたたき、虫の声、そういったものに。
ともちゃんは、深いところでそれを知っていた。だから、ともちゃんはいつでも、ひとりぼっちではなかった。(「ともちゃんの幸せ」、pp.177-179)
というのは、共感はするものの、小説の叙述としては、あまりにベタなんじゃないかとは思う。
著者は「なにひとつ時分の身に起きたことなんか書いていないのに、なぜか、これまで書いたもののなかでいちばん私小説的な小説ばかりです」と述べている(「あとがき」、p.242)*4。(たんによしもとばななについて無知であることを表明しているだけなのかも知れないけど)私が不思議に思ったのは、登場人物やトポスの設定。「「おかあさーん!」」と「ともちゃんの幸せ」を除くと、どれも地方都市が舞台になっている。地方の、大学があったり新幹線が止まったりする、それなりに大きな都市。ただ、古い城下町かどうかとかいうことには無頓着であるようだ。「幽霊の家」と「あったかくなんかない」では主な登場人物が地元でもけっこう有名な自営業の子どもということになっている。こういう設定は東京の駒込という山の手なのか下町なのかちょっと微妙な場所で批評家の娘として生まれ・育ったという著者とは或る意味で対極的なんじゃないかと思うけど、どうなのだろうか。
デッドエンドの思い出 (文春文庫)

デッドエンドの思い出 (文春文庫)