始まりとしての「太閤検地」

藻谷浩介「日本社会の根本形成を地歴一体で描く」『毎日新聞』2019年12月15日


中野等『太閤検地』という本の書評。
太閤検地」の意義とは――


大名は、年貢徴収権と住民支配権は持つが農地の所有権は持たない存在に変えられてしまったのだ。貴族が在地性を持ち続けた欧州各国とは、そこで歴史の流れが分かれた。
以下は評者の感想だが、明治維新後の版籍奉還廃藩置県がスムーズに進んだのも、太閤検地の思わぬ成果だっただろう。大名は住民支配権を奪われて東京に集められ、年貢徴収権の代わりに手当をもらう”華族”になったのだが、多くが「楽になった」と喜んだらしい。
だがその際に彼らの所有する農地をも剥脱せねばならなかったならば、つまりフランス革命ロシア革命と同様の状況だったならば、抵抗権はもっと大きかったのではないか。ありがたくも革命の園段階は、太閤秀吉が絶対権力をもって既に済ませていたのである。
この政治的意味の前提として、「太閤検地」の経済的意味として、「土地を石高という統一基準で評価し」、相互交換が可能な均質なものに変えたということがある。それによって、石高を基準とした大名の転封(国替え)が可能になり、大名と領地との関係が必然的ではなく偶発的なものに変わった。これはさらに、一般の武士に対しては、土地(領地)との切断、石高のサラリー(給与)化をもたらした。
以前から、どうして近代日本の「華族」というのは(それがお手本にした)ヨーロッパの貴族制度と違って、その権威が領地という具体物によって担保されない高級生活保護みたいになっているのだろうかと不思議に思っていた。その起源(の一つ)は「太閤検地」にあったわけだ。