石橋政嗣

ちょっと時間が経ってしまったけれど。

又市征治*1のツィート;


朝日新聞』の記事;

社会党委員長の石橋政嗣さん死去 安保国会で政府追及
2019年12月13日15時40分


 元社会党委員長の石橋政嗣(いしばし・まさし)さん*2が死去した。関係者によると、老衰で9日に死去。葬儀は福岡市内で12日に近親者で営まれた。95歳だった。

 台湾生まれ。長崎県佐世保市の米海軍基地に勤め、1947年に基地従業員の労組、全駐労佐世保支部を結成し、初代書記長に就任した。長崎県議などを経て、55年に衆院の旧長崎2区で初当選。連続12回当選した。日米安保条約改定に反対した60年の「安保国会」では、旧社会党の「安保5人男」の一人として政府追及の論陣を張った。

 旧社会党内で総務局長、国際局長、書記長などを歴任して「社会党の顔」としての地歩を固め、83年9月に飛鳥田一雄氏の後任の第9代委員長に就任。だが、86年の衆参同日選挙の敗北の責任を取って委員長を辞任した。

 党の安保・外交政策に一貫して携わった。80年には著書「非武装中立論」を発行。これを「非現実的だ」と批判した当時の中曽根康弘首相と予算委員会で論戦を繰り広げた。88年10月には韓国を訪問し、盧泰愚大統領(当時)と会談。旧社会党の幹部として、初の韓国大統領との会談になった。

 その後、連合政権構想などをめぐって、後任の土井たか子委員長ら党執行部と意見の食い違いが生じ、90年に政界を引退した。

 社民党又市征治党首は13日、「軍拡を進める中曽根首相に対し、委員長として非武装中立論をたたかわせ、自衛隊違憲合法論』を主張するとともに、文化立国論を打ち出したことは今も鮮明に記憶に残っている。信念には剛直な方だった」とのコメントを発表した。
https://www.asahi.com/articles/ASMDF52CNMDFUTFK00W.html

非武装中立論 (1980年) (社会新書〈3〉)

非武装中立論 (1980年) (社会新書〈3〉)

NHK 曰く、

社会党石橋政嗣 元委員長が死去
2019年12月13日 13時58分


社会党の委員長などを務めた石橋政嗣衆議院議員が今月、福岡市内で亡くなりました。95歳でした。

石橋氏は台湾で生まれ、戦後、長崎県佐世保市進駐軍の基地で働く、労働者の労働組合の発足に携わりました。

その後、長崎県議会議員を経て昭和30年に、衆議院旧長崎2区で初当選しました。

12回連続で当選し、この間、昭和45年から当時の社会党の書記長を務めたほか、昭和58年からは9代目の委員長を務めました。

憲法9条をもとに自衛隊を徐々に縮小し、最終的には一切の武力を放棄して、中立を守る「非武装中立」を目指すべきだと訴え、当時の中曽根康弘総理大臣と国会で論戦を繰り広げました。

その後、平成2年に行われた衆議院選挙に立候補せず、政界を引退していました。

関係者によりますと、石橋氏は晩年は福岡市で暮らしていたということです。

官房長官非武装中立論 大きな影響与えた」
官房長官は、臨時閣議のあとの記者会見で「石橋氏は、長く社会党の中枢におられ、ご自身が提唱された非武装中立論は、当時の議論に大きな影響を与えたと思っている。心から哀悼の意を表したい」と述べました。
又市党首「筋を通す信念に剛直な人」
社民党の又市党首は「目の前の課題を巧みにこなし、まずは自分自身で動く現実的な政治家で、一度こうと決めたら変えない、筋を通す、信念に剛直な人でした。先に逝かれた中曽根元総理大臣と、また論戦をたたかわせていらっしゃるのでしょうか。故人をしのび、哀悼の誠をささげます」というコメントを出しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191213/k10012213821000.html

那智曽根もとい中曽根の後を追うように亡くなったわけだ*3
福岡に住んでいたということで、公明党元委員長の竹入義勝氏が福岡に移住して、日蓮正宗の信者仲間の女性と再婚していたということを思い出した*4
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羽原清雅「石橋政嗣氏と溶解した社会党http://www.alter-magazine.jp/index.php?%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%94%BF%E5%97%A3%E6%B0%8F%E3%81%A8%E6%BA%B6%E8%A7%A3%E3%81%97%E3%81%9F%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A