『日本新聞』10年分

「戦前最大の右派新聞 約10年分見つかる」https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190809/k10012028941000.html


曰く、


昭和初期に発行され、戦前、最大の右派メディアとも呼ばれた日刊紙、「日本新聞」の紙面、およそ10年間分がほぼ完全な形で残されていたことが分かりました。

これまで多くが失われたとされていて、日本が戦争へと向かっていった道筋を解き明かす貴重な資料として研究者の間で注目を集めています。

見つかったのは、大正14年から昭和10年まで発行されていた日刊紙、「日本新聞」です。

元総理大臣、平沼騏一郎*1が設立した団体の、資料の収蔵庫に保管されていたもので、創刊から休刊するまでの10年間、およそ3000日分の紙面がほぼ完全な形で残されていました。

日本新聞は、発行部数およそ1万6000部と多くはないものの、政官財に幅広い読者を持ち、戦前最大の右派メディアとして右派思想を広めたとされていましたが、現在は多くが失われ、初期の数年間については内容もほとんど知られていませんでした。


日本新聞」は、大正から昭和初期にかけて司法大臣や鉄道大臣を務めた政治家、小川平吉大正14年に創刊しました。当時、気鋭の国粋主義者民族主義者らが社説や記事を執筆し、およそ1万6000部が発行されました。

創刊の際には、支持者としてのちに総理大臣を務める近衛文麿東条英機など政治家や軍人、財界トップらが名前を連ね、当時の右派メディアの中では異例の日刊紙として国の中枢から地方の有力者まで幅広い支援者、読者を獲得していました。

日本新聞は10年間にわたっておよそ3000日分が発行され、昭和10年に休刊となりました。残された紙面は戦争中に多くが焼失したほか、戦後は右派メディアへの厳しい風当たりなどから失われてしまい、現在は後半のおよそ5年分しか見つかっていませんでした。

小川平吉については取り敢えず、


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%90%89
近代名士家系顕彰会「小川平吉 ー戦前の党人派大物代議士ー」https://ameblo.jp/derbaumkuchen/entry-11926700379.html


日中国交回復後に初代の駐北京の日本大使を務めた外交官の小川平四郎は平吉の四男。また、宮澤喜一*2の母親は平吉の娘なので、宮澤喜一は平吉の外孫に当たる*3
ところで、「平沼騏一郎が設立した団体」だけど、有名なものでは、右翼団体「国本社」*4と学術団体「無窮会*5。現存するのは無窮会