「時の流れ」(ヴィトゲンシュタイン)


アリス・アンブローズ編『ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ 1932-1935年』第一部「哲学 一九三二―三三年」(野矢茂樹訳)*1からメモ。


一二 ある種の語、例えば「語」「命題」「世界」といった語は独自のものであり、他の語とは異なったレベルにある、というのがフレーゲの考え方であった。私もかつては「文法」「論理」「数学」といった語は、その哲学的重要性によって[他の語から]区別されうると考えていた。これらが重要に見えてしまうという外見を、私は壊したいのである。では、私の探求においてこうした語が繰り返し現われてくるのはなぜなのか。それは、私が言語に、そして言語の特定の使用から引き起こされてくる困難に関わっているからである。われわれが扱っている特有の困難は、われわれが機械的に、文法について無反省に言語を使用することに由来している。一般に、われわれが発話を促される文は実際的な状況において現われる。だが、文を発話するよう促される別の場面がある。われわれが言語に目を向け、意識的に言語に注意してみるときである。そしてそのような場面で、われわれは文を作り、その文もまた意味をもっているはずだと言う。この種の文はなんら特定の使用をもっていないかもしれないのだが、しかしそれらは日本語*2に聞こえるがゆえに、了解できるものとみなされてしまうのである。例えばそのようにして、われわれは川との類比に従って、時の流れについて語り、それについて語ることが了解可能であるとみなしてしまうのだ。(pp.69-70)
「川との類比」。例えば、

番号のついた丸太が流れている川に目を向けるならば、われわれは岸辺のできごとをこれらの丸太との関連で記述することができる。例えば「一〇五番の丸太が通過するとき、私は夕食をとった」、のように。(後略)(第13節、p.70)

時間はできごとなしにも進みうるのだろうか。「できごとは一〇〇年前に始まり、時間は二〇〇年前に始まった」。ここに含まれる時間に対する規準は何であろうか。時間が創造されたのか、それとも世界が時間の内に創造されたのか? こうした問は「この椅子は作られたものか?」という問との類比によって問われるものであり、そして、順序(「以前」と「以後」)は創造されたのかと問うことに似ている。名詞としての「時間」がわれわれをひどく惑わせる。われわれは、ゲームをプレイする前に、そのゲームの規則を作らなければならないのである。「時間の流れ」に関する議論は、哲学の問題がいかにして生じるかを示している。哲学的困難は、言語を実際的には使わずに、言語に目を向ける際に言語を拡張することによって引き起こされるのである。われわれは文を作り、それからその意味しうるところを思案する。ひとたび名詞としての「時間」を意識すると、次には時間の創造について問うようになる。(第13節、pp.72-73)

(前略)(1)われわれの記憶におけるできごとの順序、。これを記憶時間と呼ぼう。(2)いろいろな人に尋ねることによって情報が得られる順序、すなわち、五時―四時―三時[といった時刻系列で]表わされるような順序」。これを情報時間と呼ぼう。情報時間においては、ある特定の日との関連で過去と未来があることになろう。そして記憶時間においては、あるできごととの関連で、そこにもまた過去と未来があることになるだろう。さて、もし諸君が情報の順序は記憶時間であると言いたいならば。そう言うこともできよう。そして情報時間と記憶時間の両方について語ろうとするのであれば、諸君は[情報時間における]過去[のできごと]を[記憶時間における過去のできごととして]覚えていると言うことができる。[同様にして]もし諸君が情報時間では未来であるようなできごとを覚えているのであれば、「私は未来を覚えている」と言うことができるだろう。(第14節、pp.73-74)