「チェス」

アリス・アンブローズ編『ウィトゲンシュタインの講義 ケンブリッジ 1932-1935年』第一部「哲学 一九三二―三三年」*1野矢茂樹訳)からメモ。第2節。


語とチェスの間には類似性がある。――ある語の使い方を知っているということはチェスの駒の動かし方を知っていることに似ている。(略)
「その語はいかに用いられるか」、および「その語の文法は何か」。私は両者を同じ問とみなす。
「語の担い手」〔直示的定義を与えるときに人が指すものを表わす〕*2と「語の意味」という句はまったく異なる文法をもつ。両者は同義ではない。何ものかを指すことによって「赤」といった語を説明することは、その使用規則の一つを与えるにすぎず、指せないときにはまた別種の規則が与えられる。規則の総体が意味を与えるのであり、そして規則の総体は一つの直示的定義を与えることでは定められないのである。文法の諸規則は互いにまったく独立している。そして二つの語は使用に際して同じ諸規則をもつならば、同じ意味をもっている。(略)規則が意味を構成するのであり、それは意味に応じて出てくるのではない。規則のひとつが変化するときには、その語の意味が変化するのである。例えばチェスのゲームがその諸規則によって規定されているとすれば、ある駒を動かす規則が変えられるとき、[それは端的にチェスならざる別のゲームになってしまい、もはや]*3そのゲームが変化するとも言えなくなるだろう。われわれが変化について語りうるのは、ただそのゲームの歴史を述べるときだけでしかない。規則はけっしてなんらかの実在に応じて出てくるものではなく、恣意的なのである。――規則は自然法則のごときものではない。そしてまた規則はその語がすでに有しているなんらかの意味に応じて出てくるものでもない。(後略)(pp.50-51)
「語の担い手」、これは普通謂われている参照物(reference)のことだろうか。昨日、息子が「マンホール」ってどういう意味? と訊いたので、道路に行って、「マンホール」を指さして、これが「マンホール」だよと言った。まあ、これは「マンホール」という言葉の参照物を教えたのであって、その言葉の「意味」を教えたのではないよね。

*1:Mentioned in https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/01/25/003734

*2:〔〕に囲まれた部分は、編者アリス・アンブローズによる補足。

*3:訳者の野矢氏による補足。